佐田岬は「さだみさき」である。「さだまさし」の佐田で、「さた」ではない。四国の西端、豊後水道へ向かって突き出した半島の先端である。この半島自体が、まるでマンデルブロー集合の一枝を思わせるような入江をいくつも並べたでこぼこが、だんだんと先に行くに従って細くなっていく。前にも書いたように、実に美しい岬らしい岬のひとつといえよう。
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 昔から、地図を眺めては「ここへ行ってみたい」と思っていたが、なかなか機会がなかった。いや、こんなところにはそもそも「機会」などあるわけがない。だから、もうわざわざに行くしかないのだ。
 この半島を貫いて走るのが国道197号線。かつてはライダーなどからは“イクナ酷道”と悪口を言われていたそうだが、今では八幡浜から三崎まで、その名前はドーダカの“メロディライン”が通っている。
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 三崎からは、国道九四フェリーが対岸の大分県の佐賀関まで繋ぎ、大分市まで197号線は延びている。フェリーも国道の一部、というのはめずらしい。
 佐田岬と関崎の間は、豊後水道というよりも、速吸瀬戸または豊予海峡と呼ばれる。フェリーは、一時間に一本の割で往来するが、早朝から夜遅くまで、多くの乗用車やトラックを運んでいる。
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 久里浜-金谷フェリーよりも小さいような船だが、幸いお天気もよく、揺れることもなく海峡を往復できた。料金は倍かかるが見晴しと混雑を避けることを考えて一等船室にしたのは、正解だった。広い部屋を一人で独占して、船の進行方向正面を見ることができる。
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 フェリーの乗り場のそばには色あせた看板があって、なんとこの豊予海峡に橋を架けるという計画があるらしい。明石海峡大橋の三倍以上の規模の吊橋にするというのだが、まったく公共事業のネタは尽きまじである。
 メロディラインも三崎から佐田岬の先端までの細い道も、半島のかなり高いところを走る。岬の多くは、海岸線を縁取るように道が沿っているが、ここではそれはない。
 半島の最高点は標高400メートルに満たないが、全体がほぼ海から屹立するように聳え立っている。これでは海岸線に道ができない。やむを得ず稜線に近い高いところを通ることになったものだろう。
 最初はもう紅葉かと思ったが、そうではなく、先ごろの台風で潮を吹き付けられた木々が、塩害で葉を枯らしてしまったものだ。ところどころ木が倒れたところもある。豊後水道に吹く風は、南風が強いそうで、そのためか、半島のところどころに点在する集落も、そのほとんどが北側にあるが、これは南側には入江が少ないためでもあろう。
 いつも地方のはずれに行くと思うことは、人間の生活と暮らす場所の不思議である。「こんなところにも暮らしている人がいるんだ」と、おせっかいにも余計な感想が、決まって浮かんでしまうのだ。
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 この佐田岬半島にも、車一台がやっと通れるような細い道を、曲がりくねりながらどんどんと行った灯台に近い先端のほうにも、あちこちに急傾斜にへばりつくようにして民家が点在し、小学校も分校もある。人間の営みは偉大である。
 三崎から先はバスも通っていないので、ワゴン車の乗合タクシーが日に何本か往来している。住んでいる人も、若い人は少なく高齢者ばかりだという。途中乗ってきた二三の人も、お年寄だった。
 素人考えだが、この細長い半島の形成には、北側を九州から吉野川、そして和歌山から尾張へと連なる中央構造帯と関係があるのかもしれない。この辺りでは緑色の崖も見かけ、いわゆる鉄平石のような緑色板岩の層があちこちに露頭を出している。この岩を、塀や石段などにしきりに使ってある。
 これは同時に、崩れやすい地盤ということでもあるらしい。佐田岬灯台への道路が切れる突端にあった駐車場は、地割れして海側のほうへ滑り落ちそうに傾いているので入れない。道にひび割れが走っているところは、そのほかところどころにある。
 少し前までは、この半島はいくつかの町でそれぞれ行政区域が分けられていたが、例の平成の大合併で、半島の付け根から先端まで、全部が伊方町を名乗ることになった。伊方町といえば原発なのだが、数基の風車ができていて、まだどんどん増設の工事中である。伊方や三崎の港には、たくさんの風車の機材が陸揚げされている。
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 原発の町から風力発電も含めたエネルギーの町へと、看板を塗り替えたい意向のようだ。道路のひび割れ修理も、それからのことなのか。
 長くて広い岬は、どのような新しいイメージをつくることができるのだろうか。b0095231_8154274.jpg
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 岬へ向かう途中で、バスは八幡浜の中心の通りを走り抜ける。と、そうだったと突然気がついた。そうだ、ここが二宮忠八の生まれたところだったのだ。実は、世界で初めての有人飛行の一歩手前まで研究を進めていた不運な日本人がいたことは、ライト兄弟の成功の陰に隠れてあまり知られていない。一つの成功は、無数の失敗や挫折をも消してしまう。八幡浜を経由するのに、うかつにもそのことをすっかり忘れていた。
 「テレビ時評」のほうに書いたのと、少しダブってしまうが、初めて乗ることができた飛行機は、ついに日本の空から姿を消したあのYS-11だった。日本人で、初めて乗った飛行機がこれだったという人は少なくないはずである。
 とにかくヒコーキに乗りたい、そういう憧れは、こどもの頃からあった。しかし、実際に見たヒコーキは、空襲にやってくるグラマンの艦載機と原爆を落としていったボーイングのB-29しかなく、それ自体は憧れの対象にはならない。戦後はせいぜい新聞社や宣伝飛行機のセスナを見るくらい、あるいは白い航跡を一筋の雲に残して飛ぶジェット機だったが、空を飛ぶというしくみには興味があった。ご多分に漏れず竹ひごをローソクの炎で炙って曲げてゴム動力の模型飛行機を作ったり、バルサ材の骨格に紙を貼って翼や胴体に空洞をつくるグライダーを飛ばした。厚手の紙を切り抜いた紙飛行機などもよく作っては飛ばしていた。木を削ってモックアップ(というよりソリッドモデルか)を作るというのも挑戦したが、これは完成を見ないで挫折した。
 1965(昭和40)年の5月に東亜航空1号機のYS-11が「広島=大阪線」に就航している。ヒコーキに乗るのが目的で、就航して間もない広島空港(昔の広島空港は市内の南西の観音にあった)から大阪まで飛んだのが飛行機体験の最初であった。
 以来、飛行機に乗ることも、格別めずらしいことではなくなった今でも、できるだけ窓側の席にして、小さな窓から地上や雲の景色を眺めるのが好きである。
 今回の佐田岬/佐賀関の岬めぐりも、ANAの超割を利用してのプランであったが、先に書いたような事情で、大分も宮崎もとれず松山の往復となった。月曜日の早朝雨の降りしきる羽田空港は大混雑で、出発が30分も遅れて、計画していた伊予灘に沿って走る予讃線の各駅停車に乗ることができなかった。またしても波乱含みの予感であったが、それはひとまずおいて、ヒコーキのことである。
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 ボーイングの最新の量産機である777(トリプルセブン)に、初めて乗った。行きがB777-300で帰りがB777-200。wikipediaによると、開発に当たっては、ワーキング・トゥゲザーとして世界中の航空会社からも意見を取り入れて設計したという。
 コックピットの設計も、その意向を反映しているし、ボーイングのお得意であるANAからは、「トイレの蓋がバタンと閉まるのは乗客が不愉快に感じることが多いためにトイレの蓋をゆっくり閉める機能などの提案を行った。このトイレの蓋の提案に対しボーイング社は「いかにも日本らしい提案だ」として採用を決めただけでなく、他の航空会社へも積極的にPRを行った」(wikipedia)という。
 しかあーし! しかし、である。
 コックピットのことはわからんが、このB777シリーズには、乗客から見て重大な欠陥がある。全体に燃費と収容座席の確保のためとみられるが、軽量化が図られプラスチック部分が増えているようにも見える。
 目の前に前の座席のプラスチックの収納板が迫る。ひじ掛けの幅が従来の半分くらいに狭められ、隣の人とも親密に接触するし、このひじ掛けもプラスチックなのでひじを付いてもずり落ちてしまう。座席の奥行きは浅く、お尻がちょこんと載せる程度である。しかも、この座席がすごく硬い。こんな座席に1時間以上も縛りつけられていれば、かなり苦痛である。
 こちとら、お腹には肉がついていても、お尻にはそんなに肉がない。帰りにはもう、痛くて何度もお尻をもぞもぞさせていた。モノレールの座席に座ると、お尻がほっとした。
 トイレの蓋もさることながら、一番肝心な快適な居住性は軽視されている。それが嫌ならもっと金払ってスーパーシートに乗ればいいだろう、とでもいうのだろうか。
 ひとつだけ、B777で改善されてよかったと思うのは、備え付けの音楽の機内サービスを聴くためのイヤホーンが新しくなっていて、従来の長い間丸い二股のプラグを差し込み、コードが硬くグネグネして耳があてると痛い変なものではなくなったことである。これは、それこそYS-11の昔から、なんで最先端の飛行機でこんな妙ちきりんなイヤホーンが使われているのだろうと、不思議に思っていたものだ。
 航空会社の合理化は、サービスを切り詰めることでも、いろいろなところで進んでいるようだ。それも事実なのだろうが、気流の関係で機長から指示があったという理由で、離着陸のだいぶ前から客室乗務員も席に着いてしまう。まあ、どちらにしろ、国内線でのサービスなど、飲み物を配る以外には、とうになくなっているのだから、どうでもいいのだけれど。
 搭乗券の発券もSkipに切り替えたいようで、これも今回初体験だったが、これはそんなに早くから空港に行かなくてもいい、というメリットはだんだんにでてくるのかもしれない。
 それにしても、タマにしか乗らないのだから我慢してもいいようなものだが、いいやそうではない。タマにしか乗らないから、より快適に乗りたいのだ。ヒコーキも、もはや憧れになる対象ではなく、われわれのようなビンボー人でも乗る大衆化が進み、実用一点張りになったということで、だから座席など柔らかくなくていいということなのだろうが、それはなにやら考え違いの逆行退行現象のようにも見える。
 これからは、よほど使用機種にもよく注意して、乗る便を選ばなければならん。困ったもんだ。
 ついでにいえば、原爆を落としたB-29を造った同じ航空機メーカーの飛行機に、なんの違和感もなく乗っている自分も、ちょっとだけ変な気もする。b0095231_9585030.jpg
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 晴海の西北側、朝潮運河を挟んであるのが月島である。ここは明治の半ばに東京湾で最初にできた大規模埋立地で、隅田川を越えれば築地・銀座・京橋という場所の割には、長い間東京の場末の印象を守ってきた。
 それには、ここら一帯が空襲の被害が少なかったことと、石川島の造船所に勤める人々の住宅が、きっちりと細かく区割りされて立ち並んでいたこととも、無関係ではあるまい。
 そういう土地柄の一つの産物が、今や年々修学旅行でやってくる中学校のグループや団体も増え、シーズンには清澄通りに観光バスの列ができるほど、全国的にも有名になっている“月島もんじゃ”である。
 月島は、この清澄通りという一本の幹線と西仲通りという商店街と大小の路地でできており、住居表示以前は勝ちどき・豊海まで含めて全部月島だった。
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 でんでんむしが、この月島に棲息するようになってから、もう5年に近くなる。その土地と場所との記憶と歴史を考えると、自分とこの月島の関係も、昔からの因縁であったかのような錯覚を覚える。今日も月島の路地を歩いていると、そんな気がしてくる。
 一番最初にこの月島の地を歩いたのがいつだったか、はっきりしない。晴海の見本市から帰るときに歩いたことがあるような気もするが、これは定かではない。とすれば、昭和40年代後半あたりに、ここに住んでいたある著者を訪ねてきたのが最初だったことになる。仕事でやってきたので、そのときの周囲のことまでしっかり観察していたわけではなかった。
 それでも、通る車も少ない清澄通りがやたら広くて並木が目立っていたこと、今創立100年記念の運動会の練習に余念がない月島第一小学校にも昔の記憶があり、西仲通りは今のようなアーケードもなく静かな通りだった。
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 その程度しか印象が残っていないのは、あくまで仕事でやってきたせいなのだろう。東京歴史遺産にもなろうかという東京でいちばん古いレンガ造りの交番は、数週間前の朝日新聞にも紹介されて有名になったようだ。写真の白シャツのおじさんも、それをみてやってきた人らしい。この交番の前も、きっと通ったのだろうけれど、それもまったく記憶になかった。第一、月島へ行くのにどんな交通機関を利用して、どういうルートで行ったかも、思い出せないのだ。晴海通りの都電がまだ走っていたのだろうか。それとも…?
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 まあ、およそ記憶というものは、ほとんどの場合そんなものなのだ。
 次に、月島を訪れたのは、地下鉄の有楽町線が開通してからのことだった。佃島に高層マンションができ始めていた頃で、その一室に住むある人の家を訪ねたことがあった。部屋のテラスからは隅田川を見下ろすことができ、後にリバーシティと呼ばれるようになる辺り一帯はまだそこいらじゅう工事中だらけで、島の西側の高層マンションも中央大橋も、まだ完成してはいなかった。
 それ以来、月島を歩いたのは5年前に部屋探しを始めたとき、というわけなのだ。
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 東京都中央区の人口は、十数年前には7万人程度で底をうっていたのが、ついこの前には10万人を超えた。とくに、30〜40代の人口増加が目立つという特徴もある。昔の月島のイメージは様変わりで、16.5坪の土地が7000万円もする。路地もいたるところ再開発ラッシュで、大中小さまざまのマンションが、次々と立ち並び現在も進行中である。
 そして、でんでんむしはそこの片隅に住み、今日もまたそこを歩いている…。b0095231_7534861.jpg
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 二度目に東京にやってきたときには、勤めていた会社が築地にあって、仕事で毎年のようにビジネスショウを見に行ったことがあるし、いつだったかは縁も興味もないのにモーターショウにも行ったという確かな記憶がある。一度目に東京にきたときには、東京の絵はがきにもなっていた勝鬨橋までは行ったような記憶があり、晴海通りを都電が走っていたような景色がなんとなく残っているが、これはそう確かではなく、もう薄ぼんやりしてしまっている。
 豊洲もお台場もまだなかった当時の晴海は、東京のはずれ寂しいところで、晴海トリトンのビルが建ち並ぶ辺りには都営住宅かなにかがあった。ショウなどの催し物があるときだけは、臨時のバスが東京駅から見本市会場までピストン輸送でぎゅう詰めの人を運んだが、平素は人影もなく静かなものだった。
 帰りのバスを待つ長い行列ができていた会場入口だった辺りに立ってみると、低いビルはすべて隠してしまうほど街路樹が茂っているが、あの頃は木があるともわからないほどひょろっとした苗木のような並木があった。バスを待つのも飽きて、この道を歩いて帰ろうとしたこともある。まったく関係もないのに、東京湾の花火見物帰りの人並みをみていて、ふとそんなことを思うこともある。
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 見本市会場だった一帯の西半分は、高い塔のような煙突が目立つ東京都の清掃工場があり、残りの半分が最近整地されてフェンスで囲まれた。そしてつい二三か月前に、急ごしらえのこんな看板が立った。冗談かと思っていたら、どうやら本気らしい。でんでんむしは、IOCの最終決定では東京がどこかほかの都市に負けたほうがいいと思っている。もうほかにやることがまったくないというならいざしらず、博覧会や運動会しか芸のない能のない行政や知事など、クソの如きである。
 とはいいつつ、そこまでいうにはいささか説明も不十分で、下品さだけが目立ってしまう。かといって、それを全部論ずる材料もない。大方の都民もまたそんなもので、積極的に誘致活動をするのは多少の利害関係者だけで、あとはパワーバランスで引きずられていくだけのことなのだ。
 思えば、晴海・月島という新興の埋立地と都心を結ぶために、66年前に隅田川に架けられた勝鬨橋は、ここでオリンピックと博覧会を開くためでもあり、実現していればこれがメインエントランスになるはずであった。
 結局、このときは日本は既に大陸で戦闘状態にあったが、ヨーロッパでのナチスの侵攻が世界大戦に拡大してしまう。このため、東京の晴海・月島で計画されていたオリンピックと博覧会は、中止のやむなきに至ってしまう。でも、このときもやらないでよかった。もしムリにでもやっていれば、日本は片方で戦争をしつつ片方でオリンピックを開催するという、まことに妙な立場に立たされることになったことだろう。
 そのことを考えれば、戦争を引き起こすリーダーよりは、またオリンピックでもやろうよという程度のリーダーのほうが、はるかにマシなのだが…。
 つわものどもが夢の跡…そんな雰囲気は、晴海の南西端、朝潮運河の河口にある。トライアスロンの選手達は、この先隅田川の河口付近を泳がされるらしい。見本市会場までのアクセスは、バスのほかには日の出桟橋から晴海までの水上バスが、ちょうどこの水域を往来していた。輸送力はバスより大きかったのだろう。その切符売り場と船着き場が、なぜか閉鎖されて久しいのにまだこじんまりと残っている。
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 日の出桟橋までも浜松町からはだいぶあるし、晴海も桟橋から会場まではかなり離れており、みんな延々と列をなして黙々と歩いていた。考えてみれば、誰もみな辛抱なことではあった。
 あの頃、明るく華やかで派手なショウの会場に向かって、あるいはそれを後にしながら、みんなはどんな夢を描いて、遠き道をてくてく歩いていたのだろうか。
 今は、晴海の隣に住んでいる。この道を、この場所を、何十年か前にも踏みしめて歩いていたのだ。b0095231_6233986.jpg
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 「戦争の歴史的な評価は歴史家に任せるべきだ」といって戦争責任に言及したがらない自民党総裁候補がいるのはしかたがないが、問題は世論調査では人気があって多くの人が支持しているということと、そのまま日本の首相になってしまうということであろう。
 司馬遼太郎が「日本人はやっぱり政治がわからない民族ですからね」といっているのには、こういうことも含まれるのだろうと思われる。
 “その評価は歴史家に任せましょう”というのは、人類のためになることをした人がそれを褒められたときに、ちょっとそれを謙遜して自らそういう場合もあるし、悪いことをした人がそれを“悪くない”とはっきりいいにくい、“悪かった”とは認めたくないときに、それをぼかし現在の判断を留保する(つまり後ではそれを悪いとは認めないという)ためにいうことばとして使われるのが普通であろう。
 それで解釈すると、いわゆるA級戦犯にされたこともある元首相を母方の祖父にもつこの総裁候補のケースは、どうやら後者のほうであるらしいことは、心情的には理解できる。
 事実がどうであれ、誰も自分のじいさんは悪いことにかかわったなどとは思いたくもないし、それをカバーしたい。それが肉親の情であり、その個人のあらゆるアイデンティティの源泉は、変えようもない。
 歴史とは、現在の人間が過去をどう認識しているか、ということそのものであって、その判断を全部歴史家が下すわけではない。歴史家の役目は、その事実と人間にそういう行動をとらせるに至った背景にある思想や心理や考え方を解明することだろう。
 むしろ、すべての歴史的事実は、現在を生きるわれわれ自身の頭で考えて、はじめて意味をもつ。それがなければ、われわれは過去を知ることも理解することもできない。決して歴史家の評価にまつとかいって判断や認識を先送りできる問題ではない。
 大昔に読んだので、そのほとんどは忘れてしまっているが、E.H.カーの『歴史とはなにか』によれば、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去の間の尽きることを知らぬ対話」であるというのは有名な文句で、いろいろ引用される。
 ここでは歴史家のことを前面に出してはいるが、これはもともと歴史家だけの仕事ではなく、すべからく歴史を考える人すべてが、“現在と過去の間の尽きることを知らぬ対話”を、常に繰り返していかなければならないものなのだ、といっているのだと解釈できる。
 歴史はまた、歴史年表に載ることがない多くのことども無数にある。それらを削ぎ落として削ぎ落として、歴史が編まれていくのは物理的にみてもやむを得ないことだ。だが、削ぎ落とされたものやそもそも歴史的な価値などない一般人の日常にも、大切なものがたくさんある。
 それを普通の場合、「歴史」とは認識していない、認識できないところが問題の在処なのだ。それらとはまったく別の歴史が、教科書や年表で扱うようなことだけが、唯一の歴史なのだと、思い込まされている。ごく普通の平凡な人間の生涯には、語るべきものもなく、記録すべき価値もないものと、最初から区別している。それこそが、大きな間違いなのだ。
 これも司馬遼太郎が書いていることだが、古代の中国では“ひいじいさんのことを知らないヤツは野蛮人だ”という認識があったという。まあ、それはものの喩えというものだろうが、要するに過去をちゃんと記憶しておいたり、それらをきちんと記録に残すことができるか否かが、文明人の証だという。
 でんでんむしが『個人史』を提唱しているのは、なにもそれを読んだからではないのだが、ウンこれは使えると思ったので使わせてもらっている。
 そもそも「自分史」ということばが、無定義に広まってしまったために、それとも違うのだということを説明するだけでも骨が折れる。自分史ともいわゆる“ルーツ探し”だけとも違う、『自分の生きた証』というものが、いったいどういうものなのか、いささかわかりにくいところもあるのは認めざるを得ない。だからわざわざ本にして書いたのだが…。
 それにも、個人個人で考えてみれば、いろいろなスタイルや方法があるので、それをいろいろ縛る必要はないと思っている。ブログという形式それ自体は最終的な記録媒体にはならない、という認識さえあれば、最初はブログに書き溜めたものから始めてもそれで充分なのだ。
 歴史家の評価にも委ねられないし、歴史の舞台で活躍した先祖をもたないわれわれにおいておや、「現在と過去の間の尽きることを知らぬ対話」を、もっともっと続ける努力をして、それを記録していかなければならないのではないか。自分のためにも、後世のためにも…。b0095231_7151919.jpg
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 もう白河の関もすっ飛ばして津軽海峡も越えてしまったので、今となっては昔語りだが、「深紅の大優勝旗が箱根山を越えるとか越えないとか」が話題になった時代もあった。
 東日本と西日本ではいろいろな点で違いが大きいが、うなぎを腹から開くか背から開くかに例をみるように、その分岐する境界は名古屋または三河辺りではないかというのが通説のようだ。地質学的にみれば、その三河から紀伊半島、吉野川、佐田岬、佐賀関へと連なるフォッサ・マグナの大断層は、ここでTの字を時計回りに90度倒したようになっていて、日本アルプスを南北に走るこの構造線が東西の分け目ということもできるのだが、でんでんむしのような西日本出身の人間としては、「箱根の山を越える」と関東、そして東日本だという意識が強くあった。
 もうすっかり関東の人間になってしまったので、逆に“東京から上方へ下る”という感じのほうが馴染んでしまっているし、全国の鉄道が東京めざして上りになっているので“京へ上る”という感覚もないが、考えてみれば昔の人は東海道を往来するのも難路だった。今の国道一号線は小涌園・芦ノ湯経由であり、箱根駅伝のコースもここを走るが、昔の旧街道は箱根湯本からだと須雲川に沿って登っていく。今もバス道路と交差しながら、細い石畳の道が続いている。
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 箱根は、これまで何度となく来ているが、この旧街道を通ったことがなかったのである。登るのはしんどいので、途中バスも使いながら元箱根から甘酒茶屋、見晴茶屋、畑宿を経由して降りてみた。石畳の道は当然補修をしてきたもので、江戸時代のままなわけもないが、それでも写真で見る右側のスペースは雨水の放水路として昔のままにして整備されている。
 羊腸の小径は昼なお暗く、ただでさえ歩きにくい石畳は苔滑らかで、下りでも足がガクガクする。ここを登っても今度は関所を越えて三島に降りるのも大変だ。昔の旅人は、えらい苦労を強いられたものだが、この道だけが箱根越えの最短最良ルートだったのだから、今更のように驚く。
 見晴茶屋から見ると、湘南海岸の白い渚が、ちょっと霞んでいる。こうしてみるとここでもかなりの高度がある。
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 ふと、こんな山越えをしなくても、もっと海側に道はできなかったのかと、思ってしまう。そして、そこで広重の箱根の構図が頭に浮かぶ。あの峨々とした崖のような険しい山が「ここは通れませんよ」といっているのだ。
 今でこそ箱根といえば広く、道路も完備しているが、明治になってから宮の下に富士屋ホテルを開業するときに道をつけた、というのだからそう昔から開けていたわけではなかったのだ。
 二つの電鉄会社が、箱根山の覇権をかけて観光開発を争った話は有名だが、結局その争いの結果が現在のバスやケーブルや芦ノ湖遊覧船の航路やホテルなどに、そのままはっきりと残っているのもおかしい。フリー切符も、その有効路線エリアで色分けされているし、今流行の相互乗り入れなどはしていないのだ。でも、やはり登山電車を持つほうが優勢だな。
 この話は、獅子文六が芦ノ湯に篭って書いた小説(確か最初は新聞小説だったような記憶がある)で、一躍世間に知られることになる。
 なにごとも、歴史の経緯を無視しては語れないし、認識もできないのだ。それは会社も個人も同じでである。
 もう、それこそ数え切れないほど訪れている箱根である。それでもまだ、箱根と三島を結ぶ道は、通ったことがない(ような気がするが、バスで通ったかもしれない)し、外輪山も歩いてはいない。別に、箱根通になろうとか箱根検定を受けようとかいう野望もないし、しらみつぶしにくまなく歩いてみたいと思うわけでもない。
 だから、ほんとうはどうでもいいのだが、箱根と自分のかかわりのほんのいくらかは、ちょっとだけ記録に残しておきたいような気がした。
 そうだ。初めて箱根に来たのは、いったいいつだったのだろう。
 それはまだ大阪にいた、1965(昭和40)年だった。
 今では周辺に湿生花園だの星の王子様だのさまざまなミュージアムまでできているが、当時の仙石原はまだ辺りにはなんにもなかった。ポーラ美術館を経由して強羅へ抜ける施設巡りバスは、おじさんおばさんを満載して走っているが、そのバスが通る道もその頃にはこんな道路ではなかったと思う。
 新宿からロマンスカー(『文藝春秋』に毎号広告が載っていたので)に乗り、分不相応にも仙郷楼(これも『文藝春秋』の広告で見て知っていたのだと思う)に予約を入れたが、一人なので見栄を張る必要もない。そこでいちばん安い部屋にした。
 仙石原を見はるかす高台にある格式高い宿は、平日のことですいていたが、お抱え運転手付きの黒塗りのトヨペットクラウンかなにかでやってきている人がいた。渡り廊下のような通路で行く安い部屋は本館とは別棟のウイングになっており、通されたのはその運転手の隣の部屋だった(朝早く散歩をしていると風呂で見たその人が車を洗っていたので、それとわかった)。なるほど、そういうもんかと妙に納得したので、記憶に残っている。
 それが最初の箱根体験だった。b0095231_6345486.jpg
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 稚内で母親がこどもに殺されたとか、岩手で母娘が殺されたとか、徳山の高専で女子学生が殺害されたとか、埼玉の市営プールで女の子が給水口に吸い込まれて死亡したとか、そんなニュースばかり連日連夜これでもかとばかりに流される。
 一時期は、その事件のやり切れなさよりも、その報道の過熱ぶりに胸が焼けていたのに、秋田の主婦?によるこどもの殺害事件や、平塚の母親による娘殺しで五人もの遺体が発見されたことなど、もう忘れてしまいかけている。
 福岡では酔っ払い市職員が橋の上から親子5人の車に追突して海に落とし、こども3人が死んだという。母親が何回潜ってこどもを助けようとしたとか、関係のない日本中の人までもが、事故の模様も逐一知っている。
 事件や事故は日替わりで起こるから、伝えるほうも毎日のネタには困らない。待っていればいくらでもネタのほうからやって来るから、それを次々に処理するだけで、お仕事になるのだろう。
 微に入り細に渡って報道されるそれを、驚いてポカーンと口を開けてみているわれわれは、そんなに「事件」や「事故」のことを知りたいのだろうか。
 確かに、気の毒な被害者には同情もするし、非運に見舞われたこどもたちに花を手向けて供養の一つもしたい、と思うのも自然な人情かもしれない。あるいは、そういうことをした犯人・容疑者を憎む気持ちまで、完全には否定しない。
 しかし、それでもなおかつ、われわれはほんとうにそんなにまでして「事件」や「事故」の一部始終を知りたいと願っているのだろうか。
 それを知らずしては、生きていけないのだろうか。
 一方には、もはや少々の事件や事故では驚かなくなってしまい、「またか」と思うだけで、そういうニュースにもだんだんと慣れっこになってしまって、ただ目や耳をふさぎたくなるという自分もいることに気がついて、それにも愕然とする。
 それよりも、事件や事故がなぜどのようにして起こったのか、その原因や背景や、責任の所在や今後への取り組みや対策や、そういうことのほうがニュースとしてははるかに意味があり重要なことだと思うが、そういうことにはスペースも時間も割かないのがマスコミなのである。
 おそらく、報道関係者に詰問すれば、「そういうことはみなさんがあまり興味がないので…」というに違いない。結局、こういうニュースを追っかけるほうもそれを見るほうも、「興味本位」に過ぎなくなってしまっている。
 それでは、もう一度問わねばならない。
 われわれは、そんなに「事件」や「事故」のことを知りたいと思っているのだろうか。
 あえて、語弊のある言い方をすれば、そんな他人のことよりも、自分や自分の身近な人のことで、もっと知りたいこと、知らなければならないことが、たくさんあるのではないか。
 知りたいこと、知らなければならないことは、他人の事件や事故のことではない。自分自身のこと、自分の両親のこと、自分のこどもたちのこと、自分の兄弟姉妹やその親や子のこと、そして自分の親の親や、親の親の親や、親の親の親の親のことや…。
 もちろん、それは事件や事故ではないから、それだけで日々忙しい報道関係者の手を患わせるようなことではないのである。新聞に載せるようなことではないし、テレビに出る必要などない。図書館に行って本を開けば、どこかに書いてある、といった事柄でもない。
 あくまでも、自分自身しか知らないことであったり、自分しか調べようのないことであり、自分しか書き記すことのできない事柄であろう。それは自分自身の個人の問題なのだ。
 そういったことを、知りたいと思わないのだろうか。それを残して後の世の誰かに伝えたいとは思わないのだろうか。
 でんでんむしは、それが知りたいと思う。それを後世の誰かに伝えたいと切に思う。
 それが、でんでんむしの『個人史』へのこだわりなのだが、そんなヘンなことを考えたりするのは、他人の事件のことを知りたいということよりも、不自然でおかしいことなのだろうか。
 最近の報道をみていると、だんだん自信がなくなってくる。b0095231_5572762.jpg
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 この頃の新聞ときたら、まったく落ちたものだ。全紙面の半分(以上か?)を占める広告が、やくたいもない通販と健康食品と結婚紹介クラブと古いスターのビデオCDと英会話とツアー旅行と印鑑と複製画や掛け軸の広告…そんなものばかりで埋め尽くされている。新聞広告から一流企業が撤退し、その穴をこうしたところが補っているのだろうが、なんか様変わりになってしまった。やたら昔のことをもちだすのもどうかとは思うし、何も一流企業だけが立派なわけではないし、新聞広告の意味と役割がフリーペーパーやチラシ並みに変わってきた、と解釈するのが妥当なのだろう。
 そんな新聞広告の中に、数社入り乱れて目立っているのが「本にする原稿を探しています」式の自費出版の広告である。
 たまたま、ヒロクンさんという方からのコメントで、文章の書き方の記事が参考になったといっていただいている。お世辞にしてもそういう反応はありがたいことだ。このヒロクンさんも、ご自分で小説を書いておられて、それを自費出版で出すことになったとのこと。
 そうか、そういえば自費出版についてはまた項を改めるといっておきながら、まだ何も書いていなかったと気がついた。自分で『個人史』を書き残すことを提唱している以上、その選択肢の一つとして、表現し残すという点でこの形態も無視できないし、あれだけ新聞で広告していれば、いろいろな人がいろいろな問題に直面することもあるかもしれない。それらについて、事前にいくらか情報があったほうがよいかもしれない。
 といっても、でんでんむしには自費出版で本を出した経験はない。(常連コメンテーターのかたやまさんは、若い頃の作品から集めて詩集を自費出版で出したと、以前のコメントに書いていただいている。)だから、その体験からというのではなく、出版業界の商売の一つとしてそういうものがあるという常識からわかることだけしか、ここでは書けない。
 自費出版というビジネス自体は、かなり昔からあるし、新聞社から出版社まで、大手も中小もこぞってやっているもので、特別めずらしいとか新商売というわけではない。ただ、これまでそういう商売のお客は出版を別の目的の手段の一つに使いたいとかいう限られた人であることも多く、あらかじめちゃんとお金を出す意思をもって依頼し、出版社などがそれを本にするための専門技術を提供して受けるというのが普通であって、近年のように書籍広告の体裁をとりながら、全国各地で説明会まで開いて自費出版のニーズを一般大衆から大々的に掘り起こそうというような動きはなかった。
 そういう広告には「自費出版」と明記していないものもあるため、自費出版とはどういうものか、よく理解しないままに「売れる原稿探してるんならオレのいい原稿があるぞ」「出版社から依頼された」と短絡する人がいても不思議ではない。
 「自費出版」とは読んで字の如く「自費」で行なう「出版」であるから、当然ながらお金がかかる。いくらかかるかは、それこそページ数や内容や体裁や部数や業者や手間暇のかけ方などによってピンからキリまであるので、だいたいこれくらいともいえないが、数十万円から数百万円はかかるのである。
 それだけの予算をかける気がない人は、こんな広告はとっとと無視したほうがよい。お金をかけなければ自己表現ができない、というわけでもない。でんでんむしのいう『個人史』は、基本的にお金をかけないことお金がなくてもできるんだ、ということをいちおう前提にしている。
 しかし、世の中にはお金で済むことならそれでもいい、と考える人も少なくない。それはそれで立派な考え方であり、パソコンでプリントしたようなチンケなものではなく、ちゃんとした体裁の本にして出版社から出して、本屋にも並べて売りたいんだ、そのためならお金は出すぞ、という人ならば、これはこれでひとつの選択なのだ。
 これには、お金のほかにもいくつか注意点がある。まず、たとえ自費であっても、出版には違いがないのだから、本屋に出してあわよくばベストセラーになるだろうとか、テレビや映画化の話がきたりして、これで一躍作家になれるとかは、期待しないことだ。
 あるんですよ、これ期待する人が。世の中そんなにアマイもんじゃないということはわかっているつもりでも、自分のこととなると途端に目が見えなくなってしまう人もあるので、あえてよけいな一言。でも、広告にも“ベストセラー、テレビ化”とかうたってありますよ。そりゃたまに例外的にあるでしょうし、あるかもしれないけどそれは宣伝材料として仕掛けたのかもしれない、それくらいのことは想像しておきましょう。(とはいいながら、内容次第では自費出版で出したものが、商業出版の目に留まってそのルートに乗って売れたというのもあり得ないことではない。)
 また、これで担当者から原稿を褒められても、舞い上がってオレはスゴイんだなどと錯覚してはいけない。自費出版を業とした出版社は、お金を出してくれる人がお客様なのであるから、原稿を褒めるくらいは読まなくてもできる当然の業務である。それが、社会的に認められたとかいうこととは別なのだ。
 “本屋さんに並びます・売ります・広告もします”というのをセールストークにしているところもあるようだが、これも当然ごく限られた範囲でのことになる。普通はそれは、住所地の近所の本屋さんに置くとかいう話だと思っておくべきであろう。いったい、部数はいくら刷るんですか。全国の主立った本屋さんに並べてもらうには、そのための出版社の営業努力も必要だが、少なくとも4〜5,000部程度の印刷部数もなければ不可能なのだ。広告にしても、紙面で見る限り、受けた自費出版の作品すべてを広告しているとは思えないので、なにか条件があるのだろう。
 こういろいろ並べ立てると、お前は自費出版に恨みでもあるのか、と勘ぐられそうだが、そんなことはない。でんでんむし自身も、編集者として会社の仕事として、そういうお手伝いのいくつかもやってきたという経験はある。世の中のあらゆる商売がそうであるように、すべての条件を納得してお金を払い、その対価に値するサービスや利益を得られ、お客が満足し、ビジネスが成り立つなら、それはお互い結構で、誰が文句をいうスジでもないのである。
 自費出版の場合も、ふつうにはまず本を出すことなどどこの出版社も受けてはくれないが、自分で費用を負担すれば、それも可能だというシステムがあるという意味では、それはそれでいいことだ。その結果、ちゃんとした印刷製本の、立派な装丁の、いかにも市販の普通の本と変わらないものが「自分の本」として完成し、それを手にしたり親戚一同に配ったりするのも、自己満足だろうがなんだろうが、何ものにもかえがたい表現の喜びであろう。
 そういう理解ができる人のために、自費出版は存在している、ということをいいたいだけなのである。
 このあいだも、丸の内の丸善本店のコーナー(丸善でも自費出版の相談に応じるカウンターを常設している)を通りすがりに見ると、いかにもお金には不自由していないといった感じの70代とおぼしき老夫婦が座っていて、係の人となにやら相談している。
 いったい、この人の場合にはどんな表現意欲をお持ちなのだろうか。小説ということはないだろうな。夫婦で揃ってきているところをみると、子孫に残す一代記なのか、あるいは句集・歌集なのだろうか。いや、それとも長年やってきた仕事の記録なのか。ちょっと後ろに立って話を聞いてみたいような衝動にかられたが、でんでんむしも非常識な人間ではないので、その場をそっと通り過ぎた。
 いずれにしても、自費出版で本が出せる、出した、出そうという人は、恵まれた余裕のある幸せな人生を送ってきた人に相違ない。b0095231_5362323.jpg
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 「浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮かんでいない。ひっそりとしていて、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬというような感じだ。」
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 「国防上に配慮」しながらの故郷めぐりの最後で、小泊にいる越野たけに会いに行くバスの中から眺めた十三湖を、太宰治は『津軽』でこう書いている。ここも、以前から一度訪れてみたいと思っていたところなのだが、それは太宰ファンだからというわけではまったくない。
 三内丸山遺跡にはネコも杓子も大騒ぎするくせに、日本の歴史からは、十三湊(とさみなと)とそこに繁栄していた安東氏の歴史や、木造の亀ヶ岡遺跡から出土している遮光器土偶や、大湯のストーン・サークル、謎の「日本中央の碑」などは、それこそ「人に捨てられた孤独の水たまり」のような扱いである。
 太宰自身も、「津軽の歴史は、あまり人に知られていない。(略)私たちの学校で習った日本歴史の教科書には、津軽という名詞が、たった一箇所に、ちらと出ているだけであった。」といいつつ、さすがに安東氏の記述も忘れてはいないが、もともと歴史の教科書や歴史学者や考古学者の言うことが、すべて信用に足る真実ではないことは、彼よりも今のわれわれのほうが多少はよく知っているはずだ。
 安東氏は、その祖を辿れば“前九年の役”で敗れた安倍貞任、“後三年の役”で清原氏を破り安倍一族の志を継いで藤原三代の栄耀の基をつくる清衡にもつらなる東北の雄であったが、地震と大津波でその繁栄を失ったとされている。岩木山から流れ出る岩木川をはじめ津軽平野を流れる十三の川が注ぐ十三湖は、その堆積と地震による隆起で「浅い真珠貝に水を盛ったような」浅い湖になってしまっているが、かつてはここに外航船が集ったのだ。そもそも「の役」というのは「外敵」との戦いを表現する用語で、それからも安東氏が頼朝・北条から「日本の国境の外」の特認を得るこの当時までは、東北が「日本」とは別の文化圏を形成していたことが想像できる。
 鎌倉から室町期にかけては日本海を股にかける貿易港として栄えた中世都市十三湊も、教科書はおろか日本の歴史で語られることもなく、地元の“伝説”としてしか扱われてこなかった。長い間、“幻の”という形容で語られるだけだったが、近年になって発見された遺構の発掘調査によってやっと伝説から史実に昇格した。文化審議会が十三湊遺跡を史跡に指定するように答申したのは、つい昨年のことなのである。
 だが、東北の古代史を知るうえで貴重な史料とされる『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』は、その出現の経緯のこともあってか、はたまた執拗で常軌を逸した“偽書キャンペーン”が行政や研究者をビビらせてか、これを正当にまともに読もうという人はほとんどいない。
 少年の頃から、ピラミッド&スフインクスだのアレキサンドリアの灯台だのバビロンの空中庭園だのという世界の七不思議に興味を持つものの、それがどんなものでどんな意味をもつのか、よくわからなかった。こどもの夢で考古学者になりたいと思ったのは、シュリーマンの自伝『古代への情熱』を読んだからであったが、どうも彼も宝探し目当てのトレジャーハンターに過ぎないような、うさんくさい印象もその頃から抱いていた。
 「人間はどこからきて、どこへいくのか」という究極の設問に答えるのは、歴史学と考古学だと勝手に期待していたのだが、それも間違いであることはすぐにわかった。まして、外国旅行ガイドのようなNHKの『世界遺産』紹介番組で、そのキャッチをゴーギャンの絵にかぶせて毎度タイトルに使うのは、誇大広告か大ピンボケか意図的な詐称としか思えない。この内容で「人間はどこからきて、どこへいくのか」を冒頭に標榜するのは相当勇敢な三段論法であるが、それをあえてやりたくなるのも、これがつまるところ誰もが行き着く、そして世界のすべてを包み込んでしまう普遍的命題だから、なんとなく誤魔化されてしまうからなのだろう。
 人間の文明は、いつどのようにして始まったのだろう。本を読んでも歴史年表を穴の空くほど眺めてみても、なぜ人類の歴史がある一定の時期に地球上の離れたところで一斉に花開く、というようなことがどうしてあり得るのだろうという疑問は、解消するどころかますますナゾが深まるばかりだったので、解決の糸口をSFに求めた。
 でんでんむしの興味は、一貫してこれにつながっている。旧ブログでもその一端を、どこからきたの? どこへいくの?をはじめ、何千年も前の人を思う進化論を否定する人々とのつきあい方は昭和天皇が聞きたがった騎馬民族説与那国の「海底遺跡」などいくつか書いてきたが、ついにここ日本にもデニケンをしのぐ説得力をもった論者を発見した。これも東北が取り持つ縁のようなもので、先に遊びの記憶の話のところで紹介した高橋克彦氏こそがその人である。
 デニケンの著作は“トンデモ本”の代表格とされることも多いが、それは彼の唱える「宇宙考古学」の概念が、一般に理解されるところまで消化されるような説得力をもっていないからだろう。それを実証して見せることができない以上、想像力にゆだねるしか道はないのだが、一般に人間の想像力のスケールやキャパシティには限界があり、そう大きくはない。
 東北にこだわりをもち、デニケンに衝撃を受けたという高橋氏は、小説家の立場を利用して、これを大部なエンターテイメントにまとめあげた。なかなかおもしろい、みごとな物語である。その作品は、出版社のほうも「伝奇小説」扱いだが、でんでんむしのような人間には、イザナミも大国主命もモヘンジョダロもノアの箱船もピリ・レイスの地図も…、すべて一本に撚り合わせて結び込んでそれ以上の意味をもつ『竜の柩』(10年以上前の作品だが、この夏に講談社文庫で全4巻完結したばかり)である。大スケールの“過去の予想”の物語は、ふつうの人にも楽しめよう。
 この娯楽作品の中に主人公の発言として紛れ込ませていて、“そうだよ、この人はこれが言いたかったんだ”というようなところがあるが、以下はそのいくつか。
 
 「プラトンの話が本当で、アトランティスが海に沈んだとしても、その文化の痕跡は必ずどこかに継承されたはずだと学者たちは言う。なのに地球上のどこからも高度な文明の存在を示すものは発見されていない。それこそがアトランティスを否定する証拠だと彼らは嘲笑うんだけどね……一万一千年前だぞ。いったいなにが遺されるってんだ。石と金製品と土器以外はたいていが酸化してしまう。現に津軽の十三湊だってあのとおりだった。(略)」
 「中央と地方。そして過去と現在。人間ってやつは、その格差の図式からなかなか離れることができない。つねに地方の文化は中央よりも低いし、過去が現在よりも高度な文明を持っていたなどとは考えもしない。だからアトランティスも否定する。一万一千年も前に五千年後のシュメール文明やエジプト文明を超える国家があったなんてありえないことなんだ」
 「…考古学者たちは、古代の民が神に支配された生活を営んでいた事実は認めていても、肝心の神の存在を頭から信じていない。歴史を学べば学ぶほど聖書とは矛盾する。敬虔なクリスチャンで考古学者という人間はほとんどいない。考古学と宗教は完全な両極に位置しているんだ。聖書の第一ページは、全能の神が七日間で世界を創造したことになっているけれど、それが嘘なのは化石を見ても明らかだからね。聖典はすべて比喩や想像の産物だと思っている」(『竜の柩』3「神の星編」より)
 
 今回の東北ブーメラン・バスツアーでは、十三湊も木造の亀ヶ岡も、ただ通り過ぎるだけだった。また今度は、太宰も書いていない湖沼の連なる津軽平野の西側を、改めてゆっくり歩いてみたい。男鹿半島へ行く日の早朝、秋田佐竹藩の久保田城付近を散歩していて偶然発見した菅江真澄と『東日流外三郡誌』の関連、そして秋田と安東氏の末裔のかかわりがあることも、ツアーから帰ってきてわかって、なにやら不思議な気がした。
 どうでも、もう一度訪ねてみたいが、しかしここも電車とバスと自分の足で歩くには相当に不便そうで…、うん、ますますやる気がでる。
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 もうだいぶ昔のことになるが、初めて東北を旅したときに路線バスが通る街角の地名を示す表示に「ぜんくねん」とあるのを見て、感に打たれたことがあった。同じように秋田には「ごさんねん」というJRの駅が今もある。東北はあなどれん。
 以来、東北地方もだいぶ回ってはみたが、なにしろ広い。まだまだ行っていないところは多いが、岬めぐりでは男鹿半島の入道崎も長年の懸案の一つになっていた。ここは白黒に塗り分けられた灯台と北緯40度を示す岩と、開けた草原と岬の先端に固まる岩礁の水島が広がるわかりやすい岬になっている。特別な思い入れがあるというわけではないが、これで日本海側の岬の主要ポイントの一つはゲットできた。
 八郎潟はとうに干拓でなくなってしまったが、地図でも特異な特徴を示している。日本ではここにしかないといわれても“ええっ?そうなの?”といいたくなるが、爆裂火口湖(マール)が戸賀湾も勘定に入れれば四つも並ぶ、めずらしい地形なのだ。これが全部一度に視界に収められる場所はないので、八望台で我慢しなければならない。
 寒風山よりもほんとうは男鹿半島をぐるっと一周したかったのだが、まあ今回はバスツアー利用なので、しかたがない。
 このバスツアー。参加者も添乗員もコースプランも、いろいろと、突っ込みどころ満載のヘンなツアーだったので、これをネタにすればいっぱい書けるのだが、それはおいて。
 上野から下北・津軽・白神・男鹿をぐるっと回ってまた戻ってくるという「ブーメランツアー」で、バス最長不倒距離をあっさり記録更新。
 今朝もまだ体がバスに揺られているようで…。とりあえず証拠写真はこんなので…。
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