昨夜、広島のいとこから電話がかかってきて、叔母の急逝を知らされた。いつか、こういう日が必ず来るとはわかっていても、何とも言えぬ感慨が胸を塞ぐ。大正の終わりに生まれた叔母は、もう歳に不足はないとはいえ、長い患いもなくポックリ逝ったのは立派な最期だった。
 肉親もなく係累の少ないでんでんむしにとっては、叔母二人がいちばん近しい人だったのであるが、それも大阪・東京と流れてきたので、めったに会うこともかなわなかった。遠く離れて住むということは、いたしかたのないことながら、疎遠になってしまう。3年前に広島に帰って訪ねたときが最後となった。
 思い起こせば、原爆の落ちた年の夏が来る前に、市内の実家を離れて府中町にあった畑小屋に、叔母がその長男である小さいいとことわたしを連れて、三人で当座しのぎの疎開生活をしていたときには、彼女はまだ二十歳そこそこであったのだ。
 その後、成人前までの約15年間を、隣家に住んでいた時期も長く、いとこたちとも兄弟同然に暮らしたので、叔母にまつわる思い出はたくさんある。昨夜はそれらが次々と溢れ出してきて、ただぼんやりと何時間も過ごしてしまった。
 そんななかでも、小さい頃の記憶は食べ物にまつわるものが多くなるらしいが、食料も充分にない時代の代用食のようなものだったのだろう、じゃがいもをつぶしてフライパンで焼いただけの油で揚げないコロッケ様の食べ物が、とても強い記憶として残っている。それをつくってくれた叔母のことが、いつもなにかのときにはフラッシュバックしてくるのが不思議だ。
 わが家の秘密をいえば、二人の叔母はわたしにとっては特別の存在であった。なぜなら、二人は「わたしの父の異母妹であり、同時にわたしの母の異父妹でもあった」からである。
 そしてまた、府中町の思い出は、土地と場所の記憶の古いページをめくり始める。b0095231_86660.jpg
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 転勤で住む場所を移り変わったことは、二度あった。一度が大阪から越谷市の蒲生へであり、もう一度は広島から大阪へ本社が移転するのに伴っての転勤であった。それは、1963(昭和38)年のことである。当時は大阪府北河内郡門真町という移転先の住所を聞いて、どえらい田舎と想像したものだったが、なにしろ恐れ多くも松下電器の本社があるところだ。結局ここには1年いて、翌年には同じ大阪の郊外で今度は南河内の柏原市に移転した。柏原(かしわら=「かしはら=橿原」とは違うので、“河内のかしわら”と説明したりしていた)には、蒲生に行くまでの5年間を過ごしたことになる。
 これらの大阪時代の土地と場所の記憶については、前の「重箱の隅でごろごろごまめかな」ブログで、断片的に書いていたことがある。門真のことについては文化住宅の火事のニュースに関連して、柏原のことについては“大阪に住んだ頃”としてまとめて書いていた。
 それらを参照してくれというのも不親切だが、これらと重複しないように書こうと気を使うのもまた面倒だ。気にしないでいこう。
 柏原は、信貴山の山並が大和川に落ち込んで切れるその河内平野の山すそのところにある。ここに住んだ5年間と門真時代を通算して足掛け7年の大阪河内暮らしも、knaito57さんが蒲生についてつけてくれた、“けれどもこの土地は夫婦の歴史の中で、またお子たちの遠い記憶の中で「若かった父さんが手探りしていた頃の場所」として小さくはない意味を持つと思います。”という、そしてそれはご自身の経験にもつながるのであろう、真情溢れるのコメントのとおりだ。長い人生の間でも、若くて未経験で頼りなく、それでも懸命に生きなければならなかった、そういう時代であった。
 柏原では平野というところにある、ブドウ畑などをもつ大きな古い農家の貸家を借りていたが、ちょっと山に入りかけたところにあって、西を望むと河内平野が広がっていた。あたりにはブドウ畑、イチゴ畑が続き、その中を桜の並木道が真っすぐに近鉄は大阪線の法善寺という駅まで続いている。レンゲ畑もそこここにある、実にのどかな田園風景を、まだ充分残していた。
 東京へ行ってからのことだが、近鉄特急に乗ってここを通り過ぎたとき、必死に窓の外を眺めていたが、もう法善寺の駅から山も見えないほどぎっしりとアパートや文化住宅が埋め尽くしていて、その軒をかすめるように走りすぎた。センチメンタルジャーニー気分も、あっけなく消え去った。
 その頃からも、通勤時は法善寺の駅からはもう座れないので、高安まで行ってそこから始発電車に乗り換えて、上六まで行く。上六からまたバスに乗り換えて、…乗り換えて…あれ、どこまで行っていたのだろうか。当時の会社は天神橋筋の二丁目の天満の天神さんのそばだったので、南森町で降りていたのだろうか。あるいは、北浜二丁目だったのだろうか。
 門真の古川橋から通勤していた頃は、京阪の天満橋から歩いて天神橋をで中の島を渡って通っていたのだが、どうももうこの上六からのバスがどのへんを走っていたかの記憶になるとはっきりしなくなっている。
 平均年齢が20代という若い会社は伸び盛りでもあり、そのエネルギーが広島を飛び出して大阪に本社を移し、その後10年を待たずに梅田近くに本社ビルをもつようになるには、当然ながらちょうど吹き始めた高度成長期という追い風があった。
 当時はまだ、会社の行事でもなにかというと宴会がつきものであった時代で、ずらりとロの字型にお膳と座布団が並ぶ座敷で、差しつ差されつということもあったが、でんでんむしはすでにそのころから立派なはぐれでんでんむしだったので、先輩や上司の杯も拒否し続けていた。それが、いじめにつながる要素と土壌さえも充分に残していたのだが…。
 一癖も二癖もあるような個性的な社員も多かったが、やがて大卒の新規採用を毎年定期でやるようになると、長い間にはだんだんとそういうクセモノは追い出されていくようにも見えた。そういう侍達が飲んで酔っぱらうと、必ずだみ声を張り上げて歌う歌があった。カラオケなどはまだない時代なので、不揃いでいい加減乱れた合唱のようになるが、その歌は当時も社歌があったわけではないのに、一部で「第二社歌」といわれていた。その歌詞はこういう。

 “あ〜すは東京へ出てゆくからは〜 な〜にがなんでぇ〜も勝たねばなら〜ぬぅ〜”

 でんでんむしが東京へ転勤になったのも、そういう大きな流れに押し出され流されてきたともいえる。もともと広島から流れてきたので、“大阪で生まれた女やさかい東京へはよういかん”という執着もない。ただ、流れていくしかないのである。
 それが、やがて“哀しい色やねん”とみえようとしても…。b0095231_9104233.jpg
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 エキサイトにお世話になるようになって、とうとう満2年になる。最初にコンセプトを決めて書き込みを始めたのは24日からだが、改めてあちらこちらのブログを覗いて、具体的に自分が使うブログをどこにするか、2004年の11月初めから研究を始めた。
 「重箱の隅でごろごろごまめかな」という題と、ブログの趣旨は、でんでんむしらしくてよいかな、と少し気に入って続けていたのだが、自分のIDを誤って削除してしまうというアクシデントに遭遇したのは、今年のゴールデンウイーク明けのことである。
 新しくエキサイトが始めたネームカードの設定をするさいのミスといえばこちらのミスでもあるのだが、当初の誘導システムの不備が原因であるし、そういう過誤にもとづく操作で身元が確認できるはずなのに、IDの復活ができないというのは、単なる管理者の横着のような気もしたが、なにしろこちらはタダで使わしてもらっているのだから、あまり文句も言えない。
 過去ログを削除してしまうわけにもいかないので、それはそのままにして、新しく変えて始めたのがこのブログだが、ぼつぼつ精算の時期がきつつあるかと、夏から収束態勢に入っている。こういう傾向は順繰りに繰り返すらしく、でんでんむしブログを始めた頃にブイブイいわしていたブロガーも、いまでは止めたりしている人も少なくない。
 エキサイトでは当初から「PDF出版」の看板を掲げており、これの行方を見届けたいという思いもあったが、結局これはものにならず、どうやら新しい「MyBooks,jp」に委ねるようだ。
 新し物好きとしてはさっそく試してみるが、これまたシステムをつくる側の勝手な思い込みでできているため、ユーザーの現状やレベルやに対応できていない。まだ全体がみえていないのに、いきなりPDFをつくれといわれても、困るだろう。PDFファイルを仕事でつくったり読んだりしていて、しかもブログを本にしてみようかという明確なニーズがあるでんでんむしでさえ、すんなりと入って行けないで登録さえできなかった。
 これも、このサイトの誘導システムが悪いからである。これでは、新しい多くのユーザーは開拓できない。だが、こういうシステムの不備で困ることは、ネット社会ではますます増えるのだろう。
 別に乗り換えるというつもりではないが、So-netのブログを始めてみたのも、ほかはどうなんだろうという興味半分で、この夏から始めた。こちらでも、お友達をつくろうという気は、はなからないので、コメントやトラバもいちいち応接はしない、ほかのを見てコメントを書くということもしない。
 当初はテレビ時評をテーマとしてやってみた。やってみて気がついたが、でんでんむしのテレビの見方には偏りがあるし、それほどまんべんなくいつもテレビを見ているわけではないので、ある程度やるともうおもしろくなくなる。
 そこで、かねてから懸案となっていた、HDのiPhotoデータの整理をかねて、「でんでんむしの岬めぐり」をメインに切り替えることにした。
 ところが、このSo-netのブログがまた問題で、エキサイトと比べて操作性が格段にいいとはとうてい言い難い。始めた当初から、どうかするとアクセスまでもたつくなあと感じていたのだが、今朝はとうとういくら待ってもサイトにたどりつくこともできない。
 こちらは、毎日岬をひとつずつアップして、データを整理して溜めるのが目的だが、朝の日課がいつまでも片づかないのは落ち着かない。しかたがないので、これを書いているが、今だにダメである。そういえば、So-netは突然メンテでアクセスできないこともあるし、どうもいまいちだ。
 だが、So-netのブログにも今のエキサイトと違ういい点(やはりいい点なのだろうな)が、ひとつある。今のエキサイトでは、新着のリストを常時見えるよう簡単に一覧で遡って探せるようにしていないので、誰かが一見さんが通りすがりにぶらりと訪問するということは、検索でくる人以外はほとんどない。見て読んでくれている人のすべては、リンクをつけている人とか、RSSで巡回している人とか、コメント・トラバ仲間とか、自然にできる小さなゆるいグループのメンバーに限られてしまうことになった。
 だから、多くの人に見てもらいたければ、せっせと出かけて行って、リンクを増やしコメント・トラバをこまめにつけて、相互に訪問しあう仲間を増やさなければならない。これが、エキサイトの考えるSNSなのかもしれないが、でんでんむし的にはそれもちょっと違うと思うのだ。
 So-netでは、これもカウントの実態がいまひとつ不明なのだが、新たに始めて間もないでんでんむしのブログでも、毎日70〜100件くらいのアクセスがある。しかし、コメントなどがつくことは、ほとんどない。もっともこれは、こちらが意図的にそれを期待しないで避けているということもある。
 カテゴリと使い分けも不便だ。たとえば、でんでんむしの場合、「テレビ」と「岬めぐり」ではまったく異なる。これを切り分け差配する「共通テーマ」というのがどうも使いにくい。二つやってみてわかったのだが、「テレビ」と「岬めぐり」では倍半分ほどページの閲覧数が違う。「テレビ」のほうが多いのだ。それもニュースとか報道ではなく、ドラマ(「ラ」にアクセントあり)なのだ。
 しかし、でんでんむしが見ていない話題の「ノダメカンタービレ」とか「だめんずうぉ〜か〜」や「セーラー服と機関銃」とか「14歳の母」などを、ムリしてみようとも思わないので、これももういいかげん適当にしておくことにした。
 ほかのSo-netのブログページも、ほとんど見ていないが、割とガキっぽいのが多い。エキサイトのほうは、まめに探せばおとなのブログもそれなりにあるようだが、これも全部調べたわけではないので、単なる印象の問題であろう。
 それにしても、しょっちゅうエキサイトからくる「あなたは利息を払いすぎていませんか?」メールには、いささかうんざりだ。結局スポンサーはそういうとこしかないのだろう。
 えー、So-netはまだつながりません。だめですじゃ、こんなことでは。
 ボーダフォンがソフトバンクになるというので、またこんなことが起こるんじゃないかと思っていたら、これも案の定、決して予想外ではない予想通りの展開だ。まあ、こちとらケータイもたない主義なので、関係ないけど。
 NHK-FMのMP2の木曜日担当(あ、今日だ)の矢口清治さんも「運転免許もケータイもない」といっていたが、ご同輩同類もいるのだ。
 ただ、でんでんむしはかねてからPDAのいいのが欲しいと思っているのだが、なかなかこれというものがまだ出てこないのだ。それがケータイになってしまう可能性は、否定しにくい。b0095231_7533212.jpg
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# by den8den8T | 2006-11-02 07:53 | 身辺雑記
 地下鉄に乗って、築地から蒲生まで行ってみた。1968(昭和43)年4月から14か月間、週のうち6日を通勤で往復した路線である。地下鉄は日比谷線だが、東武伊勢崎線と相互乗り入れをしていて、北越谷と中目黒の間をジュラルミンだかアルミだかの銀色に光る、角の丸い車両が走っていた。今ではどこにもある相互乗り入れも、この線がハシリだったような気もする。
 北越谷ですでに座席は満員になるくらいだったので、当然蒲生からはもう座れず、東京へ向かう朝の通勤時は大混雑だった。北千住を過ぎキーンと大きな音を立てながらカーブを地下に入るこの三輪、入谷の辺がラッシュはピークで、ギュウ詰めの車内はますます潰されそうになったものだ。上野でほっと一息ついたもんだったなあ、と思い出にふけっているうちに、電車は地上に出る。
 ASCIIの大きなロゴの入った白い紙袋を下げたおじさんが乗ってきた。ASCIIかあ。これにもいろいろ因縁と思い出があるなあ。松原団地、あの当時車窓に目立っていた団地群も探さないとわからないなあ。
 おじさんもここで降りるのか。袋ばかり見ていたが、顔を見てびっくり。あ、な〜んだ、森永卓郎さんだ。そうだ、獨協大学の先生やってるんだから…。
 当然といえば当然なので、驚くにはあたらないのだが、高架になった蒲生の駅や、駅前の通りも一変している。この先ではJR武蔵野線がこの南では外環自動車道のチューブが東西に貫き区切られている。
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 よく人は“浦島太郎の気分”という比喩を使う。だが、そういう場合でも、なんらか見知った見覚えのあるなにかが、一つ二つはあるものだが、ここでは40年近く前の面影はまったくない。
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 駅前の一本の商店街の入口には“30人31脚全国大会出場”を祝い応援する横断幕がはためいている。この道もあるにはあったはずだが、こんな感じではなかった。
 当時は日光街道に出るともうその先は田んぼと畑がどこまでも広がっていた。雨の日など道が泥んこになるので、田んぼの中の道を長靴を履いて通勤したこともあるのに、それがアパートとマンションと建売り住宅で、くまなく埋め尽くされている。
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 古い農家の裏庭に建てられた三軒の小さな貸家の一軒を借りていたのだが、その当時の借家はもうないとしても、大家さんの家は今もあるはずだろうな。大きな屋敷の前のこの一角だけに、少し田んぼが残っている。この辺りだったような気がするが、場所も道もさっぱりよくわからない。
 家の回りも泥土で、そばには農業用水らしいがついでに下水の役目も果たしていたようなどぶ川が流れていた。このほかにも家から少し歩くと、こどもを連れてフナなどをすくいに行った、遠くでは綾瀬川につながる小さい川も数本あったはずだ。
 越谷は実は、昔はちょっとした水郷で、なにしろ漁業協同組合があったくらいなのだ。田畑のあちこちの農家の屋敷林がこんもりと茂る以外には、どこまでも平坦な地形は、夏など朝も4時過ぎから「アサーッ」とばかりに太陽が照りつけるのには、びっくりしたものだ。それまで暮らした広島でも大阪でも、山があるからそんなことはないので、それが“関東へやってきた”という実感だった。
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 川はどうだろう。まだ残っているのかしら。ソフトボールくらいは優にできる、かなり広い公園の空き地があった。そこで掃除をしているおじさんに声を掛けて聞くと、その川はもう道路になっているという。地主が市に貸し出して提供している公園の土地は、このおじさんのものらしい。
 まあこのベンチに座りなさいといって、いろいろとしてくれた話を総合すると、この蒲生の辺りは昔は八軒家といわれ、農家もそれくらいしかなかったのが、農地解放で小作に提供されて、大地主は減った。それも坪700円で取引されていたものが、急激に値上がりし一躍お大尽になった農家も多かった。しかし、そんな泡銭を投機ですってしまったりする家もかなりあったという。
 このおじさんも大地主の分家だったが、戦争中は憲兵をしていたので、戦犯容疑に問われたこともあるのだという。
 「すっかり変わりましたわ。見る影もないね。公園にもああして落書きはするし、高校生くらいの女の子までタバコを平気で吸うんですが、下手に注意すると、こっちがやられるからね。日本はいったいこの先どうなるんじゃろうかと思いますな。」
 このおじさんにも、いいたいことはたくさんあるのだ。
 蒲生に住んでいたのは、田中角栄の「日本列島改造論」が出る4年前のことである。なにもここばかりに限ったことではないが、“地本主義”の世の中のひずみの延長線上に、われわれもまた引っかかっている。やっぱり、若者には日本史も地理も必修にすべきなのだ。
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 川だったとおぼしきところには、真っすぐな広い道路が走っていた。並木の桜は、急速に赤く色づき始めたようだ。家の間を歩いて行くと、昔先祖供養をしてもらったこともあるお寺の前に出た。あの頃も大きなお寺ではあったが、なんだかすごく立派になっている。
 引越の荷物を積んで、大阪から走ってきたトラックが、家のそばまでの道が狭くて入らず、この辺りに停めて運んだりしたんじゃなかったかしら。
 もともと、ここに住むと自分で決めたわけではなかった。会社が通勤に便利だろうと、転勤にさいし借りてくれた借上げ社宅だった。それに、蒲生の14か月は、東京に腰を据えて暮らし始めるための準備期間になったので、必ずしもここに愛着があったというわけではなかった。
 それでもこの地に立ってみると、人が生きるということには、実にいろいろなことがあるものだと改めて思う。そして、そのほとんどを忘れながらここまできている。b0095231_7562859.jpg
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 まだ若き芭蕉もその工事にかかわったとされる関口の堰から、石の水樋を通して引き込んだ神田川の水を、江戸の上水道として送水していた時代、水樋の橋があったところからその名が付いた水道橋は、何年ぐらい通ったことになるのだろうか。
 この駅も、後楽園と例の黄色いビルがあるし、付近に大学・学校なども多いので、結構乗降客で混雑していた。後楽園ホールの「笑点」の収録に向かうとこらしい円楽が、黄色い電車から降りてくるのをみかけたことがあるが、あの頃の司会は談志だった。
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 駅と神田川の北側は、ドームができ高層のホテルができして、随分と変わっている。南側はあまり変わっていないように見えるが、それでも多少ビルも高くなったようだし、店なども全般にこぎれいになっている。
 一応神田のはずれにあたる、白山通りからさらに西側に何本か寄った裏通りの小さな雑居ビルに、会社の東京支社が移転したのは、1970(昭和45)年頃のことだったと思う。それから、本郷に移転するまで13年間、ここに通ったことになる。今にして思えば、そんなに長いこといたのかという感じがする。
 会社の本社と雑誌部門は大阪にあったが、東京ではここを書籍出版部の拠点にして単行本事業を本格化させることになり、でんでんむしも編集者として新たな決意と使命感に燃えていた。編集者の仕事は、勤務時間内のことではないので、エエカッコウでいえば24時間いつも仕事のことを考えているような毎日だった。単行本では後発版元だったので、それ故の苦労もしながらも制作点数もどんどん増え、なかには売れる本も出せるようになったし、書店の店頭では先行している大手版元の本に伍して、自分たちの作った本がたくさん並んで目立つようにもなった。
 今でも、年に一度の忘年会でこの頃の仲間が顔を合わせることがある。すると、酔っぱらうと「いやー、あの三崎町の頃はよかったですね」というような話が必ずでてくる。人間は、とかく過ぎ去った昔のことが懐かしいというだけでなく、それはとてもいい時代いい時間だったと、思いたがるのかもしれない。
 決して恵まれた環境とはいえないところで、みんなが大きな挑戦目標を持って、それぞれに一生懸命だった。きっと、その経験が思い出を美しくする、それが尊いのだろう。
 思い起こせば、高度成長期だったということもあるだろう。年齢的にはまるまる30代から40代初めにかけてということで、働き盛りということもあっただろう。水道橋・三崎町の時代には、広島カープが初めてリーグ優勝したり日本シリーズを制したりした。仕事の視察ということで、初めての海外旅行でヨーロッパにも行き、アメリカの西海岸と東海岸にも、海外からの旅行客を受け入れ始めて間もない中国にもでかけた。YAMAHAのいちばん小さいヨットを買って、観音崎や久留和や森戸の海でセーリングのまね事をしたり、雑魚釣りにも精を出した。
 だが、この時期に遭遇し、自分の生涯でいちばん大きなエポックとなったことは、世界に初めて登場したマイコンとの出会いであった、というべきかもしれない。初めてのBASICマシンを買って会社でいじり始め、その後個人でも買えるようになって、家と会社を電話回線でつないでマイコン通信の実験を試みたのも、この時代の終わり頃だった。
 西口の駅を出たガードの付近の感じは、昔と変わらない。ここに来た当初は、この先橋の西側にはだるま船が着いて、そこから清掃車が運んできた大量のゴミを積んで、せっせと海に運んでいたが、さすがにそれはもうないようだ。
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 三崎町から移転して以来、めったに来ることがなかった水道橋に降り、引越以来何十年ぶりに駅前から南に歩いてみると、見覚えのある通りは、いちだんと賑やかになって、歩道もきれいになっている。路地に入ると、わずかに見覚えのある建物や看板もあるが、初めてのところを歩いているような気さえする。
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 会社のあったビルの裏手には玄関に植栽を施したマンションができている。1Fから4Fまで、ばらばらと部屋を借りていた古いビルも昔のままの色で健在で、この窓の4階から3階へ太い同軸ケーブルをたらしてマイコン同士をつなぐことまでやってみたのは、LANなどという言葉もない時代だった。当時から入居している会社の看板まで同じで変わっていなかったが、昼休みにみんなでたむろしていた二つの喫茶店のうち、一つはもうなかった。いや一つでもまだ残っていたというべきか。
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 昔この辺りは、川と高速道路と飯田橋の操車場とで完全に西へのつながりを絶たれていた。それがなんと、ビルの横前からすぐ飯田橋方面に渡る橋ができている。土地と人とのつながりは、転勤や引越や転職やで、簡単に切れたり変わったりしてしまう。だが、土地はどこまでもいつまでもつながって、常に残っている。b0095231_6393462.jpg
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 人間がどんなところにどのように暮らし、どんな土地を知ってどんな土地を知らないか、それもまったく縁というものである。狭い日本もあちこちに多くの町や村やあるが、その人が一生のうちに生活したり仕事で毎日のように行き来しているところは、どうしても限られてしまう。
 「つきじ」という地名についても、かなり昔からその名前だけは知っていた。それらは、当然ながら活字から得た知識であって、たとえば小山内薫の築地小劇場があったとか、小林多喜二が築地警察署内で拘留中に拷問を受けて死んだ所とか、日本で最初に活字ができた築地活版所があったとか、著名人の大きな葬儀が行なわれる築地本願寺があるとか、そういうことであった。
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 今、隅田川を越えて、お昼ごはんを食べに築地市場の場内まで足を運び、ターレーに発泡スチロールの箱などと乗ったおじさんたちが溢れるなかを、それでも邪魔にならないように気をつけながら歩いていたりするが、ここ築地も結構古くから縁があった場所なのである。
 思い起こせば、あれは1968(昭和43)年の遅い春の頃だったが、大阪の本社から東京の支社(まだ“東京事務所”といっていたかもしれない)に転勤になってやってきたとき、その支社が築地にあった。まだ、廃止になる前の都電が走っていて、京橋郵便局の向かい辺りから新富町・八丁堀方面に線路が延びていてそこに「築地」という停留所があった。今のバス停の「築地」がその中心であるはずの新大橋通りの交差点ではなく(ここは「築地三丁目」)、松竹の青いガラス張りビルの前にあるのは、その名残りなのではないかとにらんでいる。
 当時の東京支社は、電通の本社や中央区役所にも近い、築地橋のそばにある雑居ビルのワンフロアにあった。そのビルは今もあるが、何度か持ち主が変わってきたらしく名前も変わっている。築地橋の下はすでに川はなく、道路工事の途中で中断したような趣で放置してあり、昼休みなどはそこに降りてシートノックやキャッチボールなどする人が多くいたが、驚いたことにそれから40年近くにもなるのにその趣は変わっていない。ただ、キャッチボールなどできないように厳重な囲いがしてあるだけだが、この下にには有楽町線新富町の駅がある。
 結局、2年くらいしてワンフロアでは手狭になって、商品の出し入れに便利な1階を確保する必要があって水道橋の南側、神田三崎町に移転したので、ここにはわずかしか通わなかった。家と会社の間を地下鉄の日比谷線に乗って往復するくらいで、付近を歩き回ろうという余裕もなかったのだなあ、と今なら思える。築地玉寿司は行っていないが、宮川のウナギはよかった。
 当時はなんとなく敷居が高くて近寄りがたく入りがたかった、築地本願寺や築地市場は、今では散歩コースでよくお邪魔している。
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 この「築地」は字の意味の通りで、江戸時代の埋め立てで開けた。当初は日本橋にあった本願寺も魚河岸も、埋め立て後に移転してきたという。市場はもっと後の話になるのだが、本願寺については幕府が移転させようとした場所はまだ半分海であり、それを佃島の漁師などの信徒が協力して船で土を運んで埋め立てた、という話が伝わっている。でんでんむしも関東へやってきたとき当惑したのは、浄土真宗のお寺がほとんどないということで、埼玉にいたときには父母や祖父母の年忌を近所のお寺に相談に行ったら、気軽に引き受けてくれたものの聞いたこともないお経をあげられたことがあったが、考えてみれば築地本願寺にお願いすればよかったのだ。
 勝海舟らの軍艦が係留してあった築地は、明治時代には海軍の施設ができ、築地市場になるのは昭和10年からである。70年の歴史を経た市場も、手狭になり老朽化が進んだため6年後には豊洲に移転することが決まって、すでにゆりかもめも「市場前」という駅をつくって待っている。これも、当初は反対も根強かったが、いつのまにか地元も業者も賛成ということになった。だが、場外だけはそのまま残るのだという。場外もほとんどはプロの飲食店などがお客で、通勤時間をちょっと過ぎた頃地下鉄に乗ると、よく竹の四角い篭をさげた長靴のおじさんやおばさんがいたものだ。
 昨今では土日に限らず、観光客で賑わい、ガイド本も多数出されていて、テレビもしょっちゅう映しに来る人気スポットになっている。有名な店の前には行列が切れることがなく、ギャルからおばさんや中国人の団体までが、たくさんうろうろしている。それまでたいして人が入っているように見えなかった店の前に行列ができるようになったのは、テレビでやったからなのだ。場内が移転してしまった後も、場外だけでせっかく価値が出てきた「築地ブランド」を維持できるのだろうか。
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 場内の市場が移転した跡地は、いったいどうなるのだろう。東京都はオリンピックのメディアセンターにする計画だという。オリンピックなど一時のお祭りで、祭りの後はどうするのか。石原君は記者会見で「NHKがくるでしょう」とうっかり口を滑らしたか、あるいはそう見せかけてわざとリーク発言したようにして様子を見たのか、そういっている。もちろん、NHKは「そのような計画はありません」と否定しているが、それも当然なのだ。
 結局、どうなるのか、こういうこともちゃんと押さえながら成り行きを見守っていくと、おもしろいことがわかるかもしれない。
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 これまで春海橋の辺りを歩いている人は、ユニシスの本社へ行く人で月島から歩く人がたまにあるくらいでほとんどいなかった。
 それが、なんじゃこの人出は…というくらい、急に人の往来が増えたのは、「アーバーンドックららぽーと豊洲」がオープンしたせいである。
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 ここも石川島播磨のドックがあったところなので、その遺構やクレーンなどをそのままシンボルとして残して命名されたらしい。最近あちこちにできている大型の複合商業施設だが、話題の「キッザニア東京」は、半年先まで予約でいっぱいなのだそうだ。食べ物屋も、行列しないでも入れるようになるまでは、まだしばらくかかりそうだ。
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 幅の広い晴海運河の北東端に位置し、晴海大橋の向こうにはお台場が見えるし、北側には佃島の高層マンションを望む。できたばかり、解放されたばかりのテラスはさっそく大勢の人で賑わっている。
 あと、春海橋側のマンション工事が終わり、新豊洲方面へのテラスが完成すると、晴海運河沿いに新しい散歩コースがまた広がる。
 沈む秋の夕日が、晴海の四角い塔に隠れ、日々変貌するメガシティの一断面を示すシルエットをきざみながら暮れていく。b0095231_8514637.jpg
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# by den8den8T | 2006-10-12 08:54 | 身辺雑記
 松山はうらやましい街である。毎週土曜日の昼にNHK-BSが『俳句王国』という番組を、この松山から放送している。出ている人が全部松山の人というわけではないが、松山でテレビ句会をやるといえば全国から人がやってくる、そういうことが可能な歴史と文化と風土を保ってきた街であるということがうらやましい。
 思い起こせば、広島とは目と鼻の先であるといってもいいこの街には、長いこと訪れることがなかった。初めて松山に行ったのは、東京へ来てからのことである。それも仕事で。
 今回は、たまたま往路の飛行機が遅れて当初の計画が崩れてしまったために、ただ空港を利用させてもらうだけのつもりだったが、帰りがけにここで飛行機に乗るまで2時間ちょっとの余裕ができてしまった。これが4回目の松山である。
 150円均一の市電に乗って、道後温泉に向かう。今年は坊ちゃん100年とかで、いたるところに幡が揺れている。ご多分に漏れず中学生のときに初めて『坊ちゃん』を読んだ。なんとなく気に入って『猫』も読み、『三四郎』も読んだ。ついには『虞美人草』も『こころ』も『明暗』も読んだが、こういうものは中学生の分際でわけもわからずに読むものではない。
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 道後公園の森の脇に、なんとも立派な市立の子規記念博物館ができている。結構たくさんの資料が、ちゃんと残されているのも土地柄というものであろう。だが、ひがみ慣れているへそ曲がりの目からみると、いかにもハコモノ行政の象徴のように見える豪華で威圧的な建物の印象は、泉下のノボルサンもさぞ苦笑いしとるんじゃなかろうか、と思わせてしまう。
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 道後温泉の高級旅館にも、一度だけ泊まったことがある。そのときは観光客らしく茶菓子付きの2階か3階へ行ったのだが、せっかく来たのだから、今回も重要文化財の道後温泉本館に立ち寄る。
 いちばん安い1階の一時間以内400円の入場料を払い、記念タオルを200円でもらい、自動販売機で50円のかみそりを買う。
 うっかりひげそりを持ってくるのを忘れてきた。旅館にはたいていあるだろうと高をくくっていたが、来てみると二晩ともそんなものはどこにもなかったのだ。
 坊ちゃんも入った、誰もいない静かな古い温泉にゆっくりと浸かり、三日分の無精ヒゲをきれいに剃って、なんとなくモードも切り替わったような気がした。b0095231_7543266.jpg
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 豊後水道といえば、戦艦大和もここを出入りしたのだから、イメージとしては相当広い海域のような印象があった。事実広いのだけれども、二つの岬が向き合う佐田岬と佐賀関の関崎の間は、ちょっとオーバーにいえば指呼の間にある。
 佐賀関に行く前日の夕暮れ、三崎の港から眺めると、夕日で染まる海峡の対岸には、はっきりと岬の影とすっと立つ高い煙突が見えた。
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 関崎の灯台のある先端から眺めると、その間隔はもっと狭まり、近く見える。なるほど、土木屋土建屋国家日本国としては、橋を架けたくなるのもわかるな。
 潮の流れも速吸瀬戸の名に恥じない様子で、ところどころ白い波をたてて、いかにも流れているという感じもする。その間に小さな漁船が数十艘も固まって、操業しているのも見える。この水域はさばやあじのとれる所としても有名である。
 地質的には当然佐田岬とも繋がっていて、やはり同じように並に洗われて丸くなった緑色の石が敷き詰められたような海岸も、岬の南側にはあった。遠めに見ると黒っぽいので、黒が浜と呼ばれている。さらに海沿いの道を行くと、こんどは白が浜というとこともある。この岬も結構大きくて、歩けば90分近くもかかってしまう。
 佐賀関といえば、“そりゃ関さば関あじでしょう”という人と、“やっぱり精錬所の煙突でしょう”という人と、二つに分かれる。でんでんむしの場合はむしろ後者であって、なぜか行ったこともないのに精錬所と煙突のことは、知識としては知っていた。
 日鉱の佐賀関精錬所は、石器時代の矢尻のような(といってもわからんから、スペードマークというべきか)形をした関崎の付け根にある。日本の銅の何割かはここで精練していて、そのシンボルである高い煙突は、煉瓦造りの古いのと赤白ダンダラに塗りわけられた新しいのと二本ある。どちらも現役で煙を吐いていたが、古いほうの煙突の先端は、ぎざぎざのように見える。この前の台風で、先っちょの煉瓦が一部飛ばされたのだ。
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 “こうばいかい”というのが、企業城下町らしくてなんとも懐かしいな。精錬所と反対側に向かって付け根の部分に小さな町があり、漁港と結ぶ道にはなんと「関さば・関あじ通り」という幟が立っている。ところが、これは“看板に偽りあり”で、簡単に関さばなどは食べられない。でんでんむしが訪れた火曜日は、岬の海星館も休みで閉まっていたし、店も運悪く定休の店が多く、お昼前なのにシャッターを下ろした店が目立つ。いや、そもそも料理屋の数そのものが、そんなに多いわけではない。定休ではなかったのに訪ねた漁港の店では、予約でいっぱいだからとあっさり断られてしまった。観光バス優先なのだろう。
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 関さば・関あじが有名になったのは、煙突ほどの歴史があったわけではない。もてはやされるようになったのは、バカな都会人のブランド志向が強まったせいである。料理屋などで酒を飲みつつウンチクをタレながら「いやー、やっぱさばは関さばに限るねー」などというヤツが、やたら増殖してしまった。このため、本来大衆魚であるさばもあじも、とてつもない値がつくようになった。
 そうなると、水揚げされたさばやあじは、地元を素通りしてほとんどが高値で取引される東京や大阪の料理屋に回ってしまう。漁獲量そのものも、ずいぶん減っているとかで、なかなか地元でも簡単には食べられなくなっている。
 その話を、佐田岬に戻って宿の主人にしたら、さっそく港へ行って見てきてくれた。その宿では、その日にとれて水揚げされたものしか出さないという。ところが、その日も、さばは上がっていなかった。そのかわりあじはあったとかで、それは堪能した。
 同じ水域でとれた魚でも、水揚げされる港で名前が変わる。関崎に上がれば「関あじ」だが、三崎や串浜に上がれば「岬(はな)あじ」となる。“岬さば・岬あじ”は、まったく有名ではない。b0095231_7583497.jpg
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 「いやー、合併してよくなったということは、ないですね。前は道路がひび割れたといえばすぐ直していたが、この頃は半年もほったらかしですよ。やっぱり中心はあっちですからね」
 半島の北向きなかほど、以前の瀬戸町に三机という大きな入江をもつ集落がある。そこで一台だけあるタクシーに乗って、大江まで行って、またぐるっと戻ってきたのだが、道々その年配の運転手さんが話してくれた。
 三机のように、入江があって集落があるところは、三崎や正野(串浜)以外にも半島にいくつかあるが、その全部を回ることはとてもできないので、バスダイヤを調べスケジュールをやりくりして三机-大江を選んでみたのだ。
 この半島では、田圃というものを見かけない。人々は何をして暮らしているのかといえば、多くは漁業とみかん栽培などであるらしい。
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 「大江はねえ、ここの人はとても熱心に農業やってますね」と運転手さんがいうように、海岸から少し高いところからなだらかに畑と集落が広がる。この程度の傾斜でも、ここではなだらかなほうなのだが、集落ができているのは、こういう場所に限られている。「ここの人は、学校とか役場に務めている人も多いんです」話し好きらしい運転手さんは、いろいろ話してくれる。
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 それによると、自分がこどものころには三机は海運交通の要衝だったので、港は殷賑を極め町も店も多く栄えていて、「女郎屋も二軒あったんですよ。こどもだから関係なかったですけど」という。今の町の様子からはとても想像できない。
 “女郎屋”がなくなってからも、道路事情がよくない半島では、船の出入りはかなり多かったらしく、とくに原発ができるときは、工事関係の大きな船がたくさん入っていたそうだ。
 運転手さんの記憶にもないが、うわさというか話としては聞いていたというのが、“九軍神”がこの湾で特殊潜航艇の訓練をしたということである。別に軍神の慰霊に行きたいと思ったわけではないが、その理由が「ここの湾が真珠湾に似ているから」というのは、どうもマユツバものだと考えていた。実際に見ても、それが理由だとは思えない。本当の理由はもっと合理的なものだったはずで、これは後から誰かが付け加えて定着してしまったものだろう。
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 「実際は10人いたんですが、一人は生き残ったんですね。それで九軍神なんです」
 半島の上の細い道の脇に、墓石が数基並んでいて、“海軍なんとか”と刻まれたものもあった。戦争は、どんな辺鄙なところにもやってくる。
 197号線の途中に、堀切大橋という高いところを走る橋ができている。「堀切」という名前からも想像できるように、ここが少し大きな切れ目になっているのだが、それは江戸時代に開削が試みられ、結局投げ出してしまった名残りなのだ。そのことについて水を向けると、運転手さんの話はなかなか興味深いことを補足してくれた。
 徳川家康から10万石をもらった伊達政宗の庶子が、宇和島伊達家をたてるのだが、かまぼこの技術もそれで一緒にやってきたといわれている。これは有名な話なのだが、でも、かまぼこなら仙台よりもこっちのほうが本家らしく思えるのは、なんとなく瀬戸内海つながりで身贔屓のせいかね…。
 それはともかく、宇和島の殿さんは、かまぼこだけでなくいろいろなことに関心があったらしい。江戸時代の参勤交代など、地方と江戸を結ぶ往来は、社会経済の発展を促す一因にもなったはずである。
 運転手さんの話によると、宇和島から江戸に向かうには、船で大坂まで行ってそこから陸路をとるのが普通だった。佐田岬をぐるっと迂回するコースもあったが、流れの速い速吸瀬戸は危険も多い。そこで、宇和島から半島の南側の塩成にいったん上陸して山越えをし、三机におりてここからまた船に乗った。そのため、ここには御座船六艘が係留されていたとかで、その堀の名残が九軍神の碑のそばにある。
 それも面倒だから、この峠を開削して直接船を通そうと考えたのは、当時の殿様としてはなかなかの発想だったともいえる。しかし、如何せん土木工事の技術力がついていけない。多くの犠牲を出したあげく、結局その計画は放擲される。
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 バスを待ちながら港に立って眺めると、小舟が一艘繋がれて浮かんでいるほかは、軍神の慰霊碑と六艘堀がある出島の向こうにも何一つ見えない。
 土地と歴史の物語は、かくして時の流れという大海に漂うのみである。b0095231_10165824.jpg
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