カテゴリ:足跡の記録( 14 )

 自分が“生きた証”というのは、むずかしく考えれば考えるほど、手出しができなくなる。それを突き詰めていくと、芸術や文学の世界のことのように思えたり、世の中的に価値のあるものでなければならぬような気がしてきて、シロウトはますますビビってしまう。
 そうなると、“わたしなんて書き残すことなどなにもない”という極端な自己卑下によって、なにもしないことを正当化しようとしてしまうことになりやすい。
 そこで、でんでんむしが提唱しているのは、なんでもいいから自分自身の記録といえるものを残そうということなのだが、その具体的な例として、あまり内容の深遠さや形式にとらわれず、まずはブログを利用して書き溜めることを試みてきた。
 なかでも、土地と場所の記憶は、一般的に誰でも書きやすいと思われる。ただ、ずっと同じ場所で暮らしていて、転勤も引っ越しもしたことがないという人にとっては、書きにくいかもしれないが、その場合でも方法はある。
 それと、もうひとつは旅の記録であろう。これはどんな人もどこかへ行ったという記憶をもっているはずだが、旅の記録をもっている人は少ない。ただのアルバムから一歩を進めるための例として、「でんでんむしの岬めぐり」を別ブログで始めてみている。これも人様に見ていただくためでなくもっぱら自分の必要によって続けているが、これが案外足跡と写真データの整理にもなって、有効なような気がする。
 土地と場所の記憶の記録、旅の記録…。もちろんそんなことだけで“生きた証”ともいえないことは、百も承知のうえで言っているのだ。
 ほんとうの生きた証は、もっと別のことかもしれない。仕事のことや会社のことや人間関係とか、もっとどうしょうもないドロドロとしたことや、心の奥底に秘めた懊悩や日々の生活の苦労や、家庭や親族のごたごたとか、そういったもろもろを背景として生きてきた人間にとって、実は書き残したいことは、別のことかもしれない。
 だが、それはそれとして、公表するようなことではないだろうし、書き溜める方法も別にしたほうがよいだろう。
 そうだとしても、とりあえずは表面的な事実関係や、わかりやすいこと、書きやすいことを、整理して残しておけば、それだけでもなにもしないよりははるかにマシである。そこから先はまたそれぞれの考えによって好きにすればよいことだ。
 重要なことは、100年後に「自分という人間がいた」ということが、どのようにしてわかるか、ということだと思う。
 それは、必ずしも自分自身のニーズではない。だが、それは自分自身の責任でもあるような気がしているだけである。そのためにこそなにがしか“生きた証”となる、あるいはその代わりとなりそうな記録を残しておきたい。そう思った。
 
 エキサイトブログ2周年。でんでんむし自身の記録も、おかげさまでだいぶ整理がついてきました。これをもってまずはひと区切りとすることにしましょう。b0095231_844372.jpg
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 豊後水道といえば、戦艦大和もここを出入りしたのだから、イメージとしては相当広い海域のような印象があった。事実広いのだけれども、二つの岬が向き合う佐田岬と佐賀関の関崎の間は、ちょっとオーバーにいえば指呼の間にある。
 佐賀関に行く前日の夕暮れ、三崎の港から眺めると、夕日で染まる海峡の対岸には、はっきりと岬の影とすっと立つ高い煙突が見えた。
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 関崎の灯台のある先端から眺めると、その間隔はもっと狭まり、近く見える。なるほど、土木屋土建屋国家日本国としては、橋を架けたくなるのもわかるな。
 潮の流れも速吸瀬戸の名に恥じない様子で、ところどころ白い波をたてて、いかにも流れているという感じもする。その間に小さな漁船が数十艘も固まって、操業しているのも見える。この水域はさばやあじのとれる所としても有名である。
 地質的には当然佐田岬とも繋がっていて、やはり同じように並に洗われて丸くなった緑色の石が敷き詰められたような海岸も、岬の南側にはあった。遠めに見ると黒っぽいので、黒が浜と呼ばれている。さらに海沿いの道を行くと、こんどは白が浜というとこともある。この岬も結構大きくて、歩けば90分近くもかかってしまう。
 佐賀関といえば、“そりゃ関さば関あじでしょう”という人と、“やっぱり精錬所の煙突でしょう”という人と、二つに分かれる。でんでんむしの場合はむしろ後者であって、なぜか行ったこともないのに精錬所と煙突のことは、知識としては知っていた。
 日鉱の佐賀関精錬所は、石器時代の矢尻のような(といってもわからんから、スペードマークというべきか)形をした関崎の付け根にある。日本の銅の何割かはここで精練していて、そのシンボルである高い煙突は、煉瓦造りの古いのと赤白ダンダラに塗りわけられた新しいのと二本ある。どちらも現役で煙を吐いていたが、古いほうの煙突の先端は、ぎざぎざのように見える。この前の台風で、先っちょの煉瓦が一部飛ばされたのだ。
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 “こうばいかい”というのが、企業城下町らしくてなんとも懐かしいな。精錬所と反対側に向かって付け根の部分に小さな町があり、漁港と結ぶ道にはなんと「関さば・関あじ通り」という幟が立っている。ところが、これは“看板に偽りあり”で、簡単に関さばなどは食べられない。でんでんむしが訪れた火曜日は、岬の海星館も休みで閉まっていたし、店も運悪く定休の店が多く、お昼前なのにシャッターを下ろした店が目立つ。いや、そもそも料理屋の数そのものが、そんなに多いわけではない。定休ではなかったのに訪ねた漁港の店では、予約でいっぱいだからとあっさり断られてしまった。観光バス優先なのだろう。
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 関さば・関あじが有名になったのは、煙突ほどの歴史があったわけではない。もてはやされるようになったのは、バカな都会人のブランド志向が強まったせいである。料理屋などで酒を飲みつつウンチクをタレながら「いやー、やっぱさばは関さばに限るねー」などというヤツが、やたら増殖してしまった。このため、本来大衆魚であるさばもあじも、とてつもない値がつくようになった。
 そうなると、水揚げされたさばやあじは、地元を素通りしてほとんどが高値で取引される東京や大阪の料理屋に回ってしまう。漁獲量そのものも、ずいぶん減っているとかで、なかなか地元でも簡単には食べられなくなっている。
 その話を、佐田岬に戻って宿の主人にしたら、さっそく港へ行って見てきてくれた。その宿では、その日にとれて水揚げされたものしか出さないという。ところが、その日も、さばは上がっていなかった。そのかわりあじはあったとかで、それは堪能した。
 同じ水域でとれた魚でも、水揚げされる港で名前が変わる。関崎に上がれば「関あじ」だが、三崎や串浜に上がれば「岬(はな)あじ」となる。“岬さば・岬あじ”は、まったく有名ではない。b0095231_7583497.jpg
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 「いやー、合併してよくなったということは、ないですね。前は道路がひび割れたといえばすぐ直していたが、この頃は半年もほったらかしですよ。やっぱり中心はあっちですからね」
 半島の北向きなかほど、以前の瀬戸町に三机という大きな入江をもつ集落がある。そこで一台だけあるタクシーに乗って、大江まで行って、またぐるっと戻ってきたのだが、道々その年配の運転手さんが話してくれた。
 三机のように、入江があって集落があるところは、三崎や正野(串浜)以外にも半島にいくつかあるが、その全部を回ることはとてもできないので、バスダイヤを調べスケジュールをやりくりして三机-大江を選んでみたのだ。
 この半島では、田圃というものを見かけない。人々は何をして暮らしているのかといえば、多くは漁業とみかん栽培などであるらしい。
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 「大江はねえ、ここの人はとても熱心に農業やってますね」と運転手さんがいうように、海岸から少し高いところからなだらかに畑と集落が広がる。この程度の傾斜でも、ここではなだらかなほうなのだが、集落ができているのは、こういう場所に限られている。「ここの人は、学校とか役場に務めている人も多いんです」話し好きらしい運転手さんは、いろいろ話してくれる。
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 それによると、自分がこどものころには三机は海運交通の要衝だったので、港は殷賑を極め町も店も多く栄えていて、「女郎屋も二軒あったんですよ。こどもだから関係なかったですけど」という。今の町の様子からはとても想像できない。
 “女郎屋”がなくなってからも、道路事情がよくない半島では、船の出入りはかなり多かったらしく、とくに原発ができるときは、工事関係の大きな船がたくさん入っていたそうだ。
 運転手さんの記憶にもないが、うわさというか話としては聞いていたというのが、“九軍神”がこの湾で特殊潜航艇の訓練をしたということである。別に軍神の慰霊に行きたいと思ったわけではないが、その理由が「ここの湾が真珠湾に似ているから」というのは、どうもマユツバものだと考えていた。実際に見ても、それが理由だとは思えない。本当の理由はもっと合理的なものだったはずで、これは後から誰かが付け加えて定着してしまったものだろう。
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 「実際は10人いたんですが、一人は生き残ったんですね。それで九軍神なんです」
 半島の上の細い道の脇に、墓石が数基並んでいて、“海軍なんとか”と刻まれたものもあった。戦争は、どんな辺鄙なところにもやってくる。
 197号線の途中に、堀切大橋という高いところを走る橋ができている。「堀切」という名前からも想像できるように、ここが少し大きな切れ目になっているのだが、それは江戸時代に開削が試みられ、結局投げ出してしまった名残りなのだ。そのことについて水を向けると、運転手さんの話はなかなか興味深いことを補足してくれた。
 徳川家康から10万石をもらった伊達政宗の庶子が、宇和島伊達家をたてるのだが、かまぼこの技術もそれで一緒にやってきたといわれている。これは有名な話なのだが、でも、かまぼこなら仙台よりもこっちのほうが本家らしく思えるのは、なんとなく瀬戸内海つながりで身贔屓のせいかね…。
 それはともかく、宇和島の殿さんは、かまぼこだけでなくいろいろなことに関心があったらしい。江戸時代の参勤交代など、地方と江戸を結ぶ往来は、社会経済の発展を促す一因にもなったはずである。
 運転手さんの話によると、宇和島から江戸に向かうには、船で大坂まで行ってそこから陸路をとるのが普通だった。佐田岬をぐるっと迂回するコースもあったが、流れの速い速吸瀬戸は危険も多い。そこで、宇和島から半島の南側の塩成にいったん上陸して山越えをし、三机におりてここからまた船に乗った。そのため、ここには御座船六艘が係留されていたとかで、その堀の名残が九軍神の碑のそばにある。
 それも面倒だから、この峠を開削して直接船を通そうと考えたのは、当時の殿様としてはなかなかの発想だったともいえる。しかし、如何せん土木工事の技術力がついていけない。多くの犠牲を出したあげく、結局その計画は放擲される。
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 バスを待ちながら港に立って眺めると、小舟が一艘繋がれて浮かんでいるほかは、軍神の慰霊碑と六艘堀がある出島の向こうにも何一つ見えない。
 土地と歴史の物語は、かくして時の流れという大海に漂うのみである。b0095231_10165824.jpg
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 佐田岬は「さだみさき」である。「さだまさし」の佐田で、「さた」ではない。四国の西端、豊後水道へ向かって突き出した半島の先端である。この半島自体が、まるでマンデルブロー集合の一枝を思わせるような入江をいくつも並べたでこぼこが、だんだんと先に行くに従って細くなっていく。前にも書いたように、実に美しい岬らしい岬のひとつといえよう。
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 昔から、地図を眺めては「ここへ行ってみたい」と思っていたが、なかなか機会がなかった。いや、こんなところにはそもそも「機会」などあるわけがない。だから、もうわざわざに行くしかないのだ。
 この半島を貫いて走るのが国道197号線。かつてはライダーなどからは“イクナ酷道”と悪口を言われていたそうだが、今では八幡浜から三崎まで、その名前はドーダカの“メロディライン”が通っている。
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 三崎からは、国道九四フェリーが対岸の大分県の佐賀関まで繋ぎ、大分市まで197号線は延びている。フェリーも国道の一部、というのはめずらしい。
 佐田岬と関崎の間は、豊後水道というよりも、速吸瀬戸または豊予海峡と呼ばれる。フェリーは、一時間に一本の割で往来するが、早朝から夜遅くまで、多くの乗用車やトラックを運んでいる。
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 久里浜-金谷フェリーよりも小さいような船だが、幸いお天気もよく、揺れることもなく海峡を往復できた。料金は倍かかるが見晴しと混雑を避けることを考えて一等船室にしたのは、正解だった。広い部屋を一人で独占して、船の進行方向正面を見ることができる。
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 フェリーの乗り場のそばには色あせた看板があって、なんとこの豊予海峡に橋を架けるという計画があるらしい。明石海峡大橋の三倍以上の規模の吊橋にするというのだが、まったく公共事業のネタは尽きまじである。
 メロディラインも三崎から佐田岬の先端までの細い道も、半島のかなり高いところを走る。岬の多くは、海岸線を縁取るように道が沿っているが、ここではそれはない。
 半島の最高点は標高400メートルに満たないが、全体がほぼ海から屹立するように聳え立っている。これでは海岸線に道ができない。やむを得ず稜線に近い高いところを通ることになったものだろう。
 最初はもう紅葉かと思ったが、そうではなく、先ごろの台風で潮を吹き付けられた木々が、塩害で葉を枯らしてしまったものだ。ところどころ木が倒れたところもある。豊後水道に吹く風は、南風が強いそうで、そのためか、半島のところどころに点在する集落も、そのほとんどが北側にあるが、これは南側には入江が少ないためでもあろう。
 いつも地方のはずれに行くと思うことは、人間の生活と暮らす場所の不思議である。「こんなところにも暮らしている人がいるんだ」と、おせっかいにも余計な感想が、決まって浮かんでしまうのだ。
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 この佐田岬半島にも、車一台がやっと通れるような細い道を、曲がりくねりながらどんどんと行った灯台に近い先端のほうにも、あちこちに急傾斜にへばりつくようにして民家が点在し、小学校も分校もある。人間の営みは偉大である。
 三崎から先はバスも通っていないので、ワゴン車の乗合タクシーが日に何本か往来している。住んでいる人も、若い人は少なく高齢者ばかりだという。途中乗ってきた二三の人も、お年寄だった。
 素人考えだが、この細長い半島の形成には、北側を九州から吉野川、そして和歌山から尾張へと連なる中央構造帯と関係があるのかもしれない。この辺りでは緑色の崖も見かけ、いわゆる鉄平石のような緑色板岩の層があちこちに露頭を出している。この岩を、塀や石段などにしきりに使ってある。
 これは同時に、崩れやすい地盤ということでもあるらしい。佐田岬灯台への道路が切れる突端にあった駐車場は、地割れして海側のほうへ滑り落ちそうに傾いているので入れない。道にひび割れが走っているところは、そのほかところどころにある。
 少し前までは、この半島はいくつかの町でそれぞれ行政区域が分けられていたが、例の平成の大合併で、半島の付け根から先端まで、全部が伊方町を名乗ることになった。伊方町といえば原発なのだが、数基の風車ができていて、まだどんどん増設の工事中である。伊方や三崎の港には、たくさんの風車の機材が陸揚げされている。
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 原発の町から風力発電も含めたエネルギーの町へと、看板を塗り替えたい意向のようだ。道路のひび割れ修理も、それからのことなのか。
 長くて広い岬は、どのような新しいイメージをつくることができるのだろうか。b0095231_8154274.jpg
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 晴海の西北側、朝潮運河を挟んであるのが月島である。ここは明治の半ばに東京湾で最初にできた大規模埋立地で、隅田川を越えれば築地・銀座・京橋という場所の割には、長い間東京の場末の印象を守ってきた。
 それには、ここら一帯が空襲の被害が少なかったことと、石川島の造船所に勤める人々の住宅が、きっちりと細かく区割りされて立ち並んでいたこととも、無関係ではあるまい。
 そういう土地柄の一つの産物が、今や年々修学旅行でやってくる中学校のグループや団体も増え、シーズンには清澄通りに観光バスの列ができるほど、全国的にも有名になっている“月島もんじゃ”である。
 月島は、この清澄通りという一本の幹線と西仲通りという商店街と大小の路地でできており、住居表示以前は勝ちどき・豊海まで含めて全部月島だった。
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 でんでんむしが、この月島に棲息するようになってから、もう5年に近くなる。その土地と場所との記憶と歴史を考えると、自分とこの月島の関係も、昔からの因縁であったかのような錯覚を覚える。今日も月島の路地を歩いていると、そんな気がしてくる。
 一番最初にこの月島の地を歩いたのがいつだったか、はっきりしない。晴海の見本市から帰るときに歩いたことがあるような気もするが、これは定かではない。とすれば、昭和40年代後半あたりに、ここに住んでいたある著者を訪ねてきたのが最初だったことになる。仕事でやってきたので、そのときの周囲のことまでしっかり観察していたわけではなかった。
 それでも、通る車も少ない清澄通りがやたら広くて並木が目立っていたこと、今創立100年記念の運動会の練習に余念がない月島第一小学校にも昔の記憶があり、西仲通りは今のようなアーケードもなく静かな通りだった。
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 その程度しか印象が残っていないのは、あくまで仕事でやってきたせいなのだろう。東京歴史遺産にもなろうかという東京でいちばん古いレンガ造りの交番は、数週間前の朝日新聞にも紹介されて有名になったようだ。写真の白シャツのおじさんも、それをみてやってきた人らしい。この交番の前も、きっと通ったのだろうけれど、それもまったく記憶になかった。第一、月島へ行くのにどんな交通機関を利用して、どういうルートで行ったかも、思い出せないのだ。晴海通りの都電がまだ走っていたのだろうか。それとも…?
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 まあ、およそ記憶というものは、ほとんどの場合そんなものなのだ。
 次に、月島を訪れたのは、地下鉄の有楽町線が開通してからのことだった。佃島に高層マンションができ始めていた頃で、その一室に住むある人の家を訪ねたことがあった。部屋のテラスからは隅田川を見下ろすことができ、後にリバーシティと呼ばれるようになる辺り一帯はまだそこいらじゅう工事中だらけで、島の西側の高層マンションも中央大橋も、まだ完成してはいなかった。
 それ以来、月島を歩いたのは5年前に部屋探しを始めたとき、というわけなのだ。
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 東京都中央区の人口は、十数年前には7万人程度で底をうっていたのが、ついこの前には10万人を超えた。とくに、30〜40代の人口増加が目立つという特徴もある。昔の月島のイメージは様変わりで、16.5坪の土地が7000万円もする。路地もいたるところ再開発ラッシュで、大中小さまざまのマンションが、次々と立ち並び現在も進行中である。
 そして、でんでんむしはそこの片隅に住み、今日もまたそこを歩いている…。b0095231_7534861.jpg
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 二度目に東京にやってきたときには、勤めていた会社が築地にあって、仕事で毎年のようにビジネスショウを見に行ったことがあるし、いつだったかは縁も興味もないのにモーターショウにも行ったという確かな記憶がある。一度目に東京にきたときには、東京の絵はがきにもなっていた勝鬨橋までは行ったような記憶があり、晴海通りを都電が走っていたような景色がなんとなく残っているが、これはそう確かではなく、もう薄ぼんやりしてしまっている。
 豊洲もお台場もまだなかった当時の晴海は、東京のはずれ寂しいところで、晴海トリトンのビルが建ち並ぶ辺りには都営住宅かなにかがあった。ショウなどの催し物があるときだけは、臨時のバスが東京駅から見本市会場までピストン輸送でぎゅう詰めの人を運んだが、平素は人影もなく静かなものだった。
 帰りのバスを待つ長い行列ができていた会場入口だった辺りに立ってみると、低いビルはすべて隠してしまうほど街路樹が茂っているが、あの頃は木があるともわからないほどひょろっとした苗木のような並木があった。バスを待つのも飽きて、この道を歩いて帰ろうとしたこともある。まったく関係もないのに、東京湾の花火見物帰りの人並みをみていて、ふとそんなことを思うこともある。
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 見本市会場だった一帯の西半分は、高い塔のような煙突が目立つ東京都の清掃工場があり、残りの半分が最近整地されてフェンスで囲まれた。そしてつい二三か月前に、急ごしらえのこんな看板が立った。冗談かと思っていたら、どうやら本気らしい。でんでんむしは、IOCの最終決定では東京がどこかほかの都市に負けたほうがいいと思っている。もうほかにやることがまったくないというならいざしらず、博覧会や運動会しか芸のない能のない行政や知事など、クソの如きである。
 とはいいつつ、そこまでいうにはいささか説明も不十分で、下品さだけが目立ってしまう。かといって、それを全部論ずる材料もない。大方の都民もまたそんなもので、積極的に誘致活動をするのは多少の利害関係者だけで、あとはパワーバランスで引きずられていくだけのことなのだ。
 思えば、晴海・月島という新興の埋立地と都心を結ぶために、66年前に隅田川に架けられた勝鬨橋は、ここでオリンピックと博覧会を開くためでもあり、実現していればこれがメインエントランスになるはずであった。
 結局、このときは日本は既に大陸で戦闘状態にあったが、ヨーロッパでのナチスの侵攻が世界大戦に拡大してしまう。このため、東京の晴海・月島で計画されていたオリンピックと博覧会は、中止のやむなきに至ってしまう。でも、このときもやらないでよかった。もしムリにでもやっていれば、日本は片方で戦争をしつつ片方でオリンピックを開催するという、まことに妙な立場に立たされることになったことだろう。
 そのことを考えれば、戦争を引き起こすリーダーよりは、またオリンピックでもやろうよという程度のリーダーのほうが、はるかにマシなのだが…。
 つわものどもが夢の跡…そんな雰囲気は、晴海の南西端、朝潮運河の河口にある。トライアスロンの選手達は、この先隅田川の河口付近を泳がされるらしい。見本市会場までのアクセスは、バスのほかには日の出桟橋から晴海までの水上バスが、ちょうどこの水域を往来していた。輸送力はバスより大きかったのだろう。その切符売り場と船着き場が、なぜか閉鎖されて久しいのにまだこじんまりと残っている。
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 日の出桟橋までも浜松町からはだいぶあるし、晴海も桟橋から会場まではかなり離れており、みんな延々と列をなして黙々と歩いていた。考えてみれば、誰もみな辛抱なことではあった。
 あの頃、明るく華やかで派手なショウの会場に向かって、あるいはそれを後にしながら、みんなはどんな夢を描いて、遠き道をてくてく歩いていたのだろうか。
 今は、晴海の隣に住んでいる。この道を、この場所を、何十年か前にも踏みしめて歩いていたのだ。b0095231_6233986.jpg
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 もう白河の関もすっ飛ばして津軽海峡も越えてしまったので、今となっては昔語りだが、「深紅の大優勝旗が箱根山を越えるとか越えないとか」が話題になった時代もあった。
 東日本と西日本ではいろいろな点で違いが大きいが、うなぎを腹から開くか背から開くかに例をみるように、その分岐する境界は名古屋または三河辺りではないかというのが通説のようだ。地質学的にみれば、その三河から紀伊半島、吉野川、佐田岬、佐賀関へと連なるフォッサ・マグナの大断層は、ここでTの字を時計回りに90度倒したようになっていて、日本アルプスを南北に走るこの構造線が東西の分け目ということもできるのだが、でんでんむしのような西日本出身の人間としては、「箱根の山を越える」と関東、そして東日本だという意識が強くあった。
 もうすっかり関東の人間になってしまったので、逆に“東京から上方へ下る”という感じのほうが馴染んでしまっているし、全国の鉄道が東京めざして上りになっているので“京へ上る”という感覚もないが、考えてみれば昔の人は東海道を往来するのも難路だった。今の国道一号線は小涌園・芦ノ湯経由であり、箱根駅伝のコースもここを走るが、昔の旧街道は箱根湯本からだと須雲川に沿って登っていく。今もバス道路と交差しながら、細い石畳の道が続いている。
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 箱根は、これまで何度となく来ているが、この旧街道を通ったことがなかったのである。登るのはしんどいので、途中バスも使いながら元箱根から甘酒茶屋、見晴茶屋、畑宿を経由して降りてみた。石畳の道は当然補修をしてきたもので、江戸時代のままなわけもないが、それでも写真で見る右側のスペースは雨水の放水路として昔のままにして整備されている。
 羊腸の小径は昼なお暗く、ただでさえ歩きにくい石畳は苔滑らかで、下りでも足がガクガクする。ここを登っても今度は関所を越えて三島に降りるのも大変だ。昔の旅人は、えらい苦労を強いられたものだが、この道だけが箱根越えの最短最良ルートだったのだから、今更のように驚く。
 見晴茶屋から見ると、湘南海岸の白い渚が、ちょっと霞んでいる。こうしてみるとここでもかなりの高度がある。
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 ふと、こんな山越えをしなくても、もっと海側に道はできなかったのかと、思ってしまう。そして、そこで広重の箱根の構図が頭に浮かぶ。あの峨々とした崖のような険しい山が「ここは通れませんよ」といっているのだ。
 今でこそ箱根といえば広く、道路も完備しているが、明治になってから宮の下に富士屋ホテルを開業するときに道をつけた、というのだからそう昔から開けていたわけではなかったのだ。
 二つの電鉄会社が、箱根山の覇権をかけて観光開発を争った話は有名だが、結局その争いの結果が現在のバスやケーブルや芦ノ湖遊覧船の航路やホテルなどに、そのままはっきりと残っているのもおかしい。フリー切符も、その有効路線エリアで色分けされているし、今流行の相互乗り入れなどはしていないのだ。でも、やはり登山電車を持つほうが優勢だな。
 この話は、獅子文六が芦ノ湯に篭って書いた小説(確か最初は新聞小説だったような記憶がある)で、一躍世間に知られることになる。
 なにごとも、歴史の経緯を無視しては語れないし、認識もできないのだ。それは会社も個人も同じでである。
 もう、それこそ数え切れないほど訪れている箱根である。それでもまだ、箱根と三島を結ぶ道は、通ったことがない(ような気がするが、バスで通ったかもしれない)し、外輪山も歩いてはいない。別に、箱根通になろうとか箱根検定を受けようとかいう野望もないし、しらみつぶしにくまなく歩いてみたいと思うわけでもない。
 だから、ほんとうはどうでもいいのだが、箱根と自分のかかわりのほんのいくらかは、ちょっとだけ記録に残しておきたいような気がした。
 そうだ。初めて箱根に来たのは、いったいいつだったのだろう。
 それはまだ大阪にいた、1965(昭和40)年だった。
 今では周辺に湿生花園だの星の王子様だのさまざまなミュージアムまでできているが、当時の仙石原はまだ辺りにはなんにもなかった。ポーラ美術館を経由して強羅へ抜ける施設巡りバスは、おじさんおばさんを満載して走っているが、そのバスが通る道もその頃にはこんな道路ではなかったと思う。
 新宿からロマンスカー(『文藝春秋』に毎号広告が載っていたので)に乗り、分不相応にも仙郷楼(これも『文藝春秋』の広告で見て知っていたのだと思う)に予約を入れたが、一人なので見栄を張る必要もない。そこでいちばん安い部屋にした。
 仙石原を見はるかす高台にある格式高い宿は、平日のことですいていたが、お抱え運転手付きの黒塗りのトヨペットクラウンかなにかでやってきている人がいた。渡り廊下のような通路で行く安い部屋は本館とは別棟のウイングになっており、通されたのはその運転手の隣の部屋だった(朝早く散歩をしていると風呂で見たその人が車を洗っていたので、それとわかった)。なるほど、そういうもんかと妙に納得したので、記憶に残っている。
 それが最初の箱根体験だった。b0095231_6345486.jpg
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 「浅い真珠貝に水を盛ったような、気品はあるがはかない感じの湖である。波一つない。船も浮かんでいない。ひっそりとしていて、そうして、なかなかひろい。人に捨てられた孤独の水たまりである。流れる雲も飛ぶ鳥の影も、この湖の面には写らぬというような感じだ。」
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 「国防上に配慮」しながらの故郷めぐりの最後で、小泊にいる越野たけに会いに行くバスの中から眺めた十三湖を、太宰治は『津軽』でこう書いている。ここも、以前から一度訪れてみたいと思っていたところなのだが、それは太宰ファンだからというわけではまったくない。
 三内丸山遺跡にはネコも杓子も大騒ぎするくせに、日本の歴史からは、十三湊(とさみなと)とそこに繁栄していた安東氏の歴史や、木造の亀ヶ岡遺跡から出土している遮光器土偶や、大湯のストーン・サークル、謎の「日本中央の碑」などは、それこそ「人に捨てられた孤独の水たまり」のような扱いである。
 太宰自身も、「津軽の歴史は、あまり人に知られていない。(略)私たちの学校で習った日本歴史の教科書には、津軽という名詞が、たった一箇所に、ちらと出ているだけであった。」といいつつ、さすがに安東氏の記述も忘れてはいないが、もともと歴史の教科書や歴史学者や考古学者の言うことが、すべて信用に足る真実ではないことは、彼よりも今のわれわれのほうが多少はよく知っているはずだ。
 安東氏は、その祖を辿れば“前九年の役”で敗れた安倍貞任、“後三年の役”で清原氏を破り安倍一族の志を継いで藤原三代の栄耀の基をつくる清衡にもつらなる東北の雄であったが、地震と大津波でその繁栄を失ったとされている。岩木山から流れ出る岩木川をはじめ津軽平野を流れる十三の川が注ぐ十三湖は、その堆積と地震による隆起で「浅い真珠貝に水を盛ったような」浅い湖になってしまっているが、かつてはここに外航船が集ったのだ。そもそも「の役」というのは「外敵」との戦いを表現する用語で、それからも安東氏が頼朝・北条から「日本の国境の外」の特認を得るこの当時までは、東北が「日本」とは別の文化圏を形成していたことが想像できる。
 鎌倉から室町期にかけては日本海を股にかける貿易港として栄えた中世都市十三湊も、教科書はおろか日本の歴史で語られることもなく、地元の“伝説”としてしか扱われてこなかった。長い間、“幻の”という形容で語られるだけだったが、近年になって発見された遺構の発掘調査によってやっと伝説から史実に昇格した。文化審議会が十三湊遺跡を史跡に指定するように答申したのは、つい昨年のことなのである。
 だが、東北の古代史を知るうえで貴重な史料とされる『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』は、その出現の経緯のこともあってか、はたまた執拗で常軌を逸した“偽書キャンペーン”が行政や研究者をビビらせてか、これを正当にまともに読もうという人はほとんどいない。
 少年の頃から、ピラミッド&スフインクスだのアレキサンドリアの灯台だのバビロンの空中庭園だのという世界の七不思議に興味を持つものの、それがどんなものでどんな意味をもつのか、よくわからなかった。こどもの夢で考古学者になりたいと思ったのは、シュリーマンの自伝『古代への情熱』を読んだからであったが、どうも彼も宝探し目当てのトレジャーハンターに過ぎないような、うさんくさい印象もその頃から抱いていた。
 「人間はどこからきて、どこへいくのか」という究極の設問に答えるのは、歴史学と考古学だと勝手に期待していたのだが、それも間違いであることはすぐにわかった。まして、外国旅行ガイドのようなNHKの『世界遺産』紹介番組で、そのキャッチをゴーギャンの絵にかぶせて毎度タイトルに使うのは、誇大広告か大ピンボケか意図的な詐称としか思えない。この内容で「人間はどこからきて、どこへいくのか」を冒頭に標榜するのは相当勇敢な三段論法であるが、それをあえてやりたくなるのも、これがつまるところ誰もが行き着く、そして世界のすべてを包み込んでしまう普遍的命題だから、なんとなく誤魔化されてしまうからなのだろう。
 人間の文明は、いつどのようにして始まったのだろう。本を読んでも歴史年表を穴の空くほど眺めてみても、なぜ人類の歴史がある一定の時期に地球上の離れたところで一斉に花開く、というようなことがどうしてあり得るのだろうという疑問は、解消するどころかますますナゾが深まるばかりだったので、解決の糸口をSFに求めた。
 でんでんむしの興味は、一貫してこれにつながっている。旧ブログでもその一端を、どこからきたの? どこへいくの?をはじめ、何千年も前の人を思う進化論を否定する人々とのつきあい方は昭和天皇が聞きたがった騎馬民族説与那国の「海底遺跡」などいくつか書いてきたが、ついにここ日本にもデニケンをしのぐ説得力をもった論者を発見した。これも東北が取り持つ縁のようなもので、先に遊びの記憶の話のところで紹介した高橋克彦氏こそがその人である。
 デニケンの著作は“トンデモ本”の代表格とされることも多いが、それは彼の唱える「宇宙考古学」の概念が、一般に理解されるところまで消化されるような説得力をもっていないからだろう。それを実証して見せることができない以上、想像力にゆだねるしか道はないのだが、一般に人間の想像力のスケールやキャパシティには限界があり、そう大きくはない。
 東北にこだわりをもち、デニケンに衝撃を受けたという高橋氏は、小説家の立場を利用して、これを大部なエンターテイメントにまとめあげた。なかなかおもしろい、みごとな物語である。その作品は、出版社のほうも「伝奇小説」扱いだが、でんでんむしのような人間には、イザナミも大国主命もモヘンジョダロもノアの箱船もピリ・レイスの地図も…、すべて一本に撚り合わせて結び込んでそれ以上の意味をもつ『竜の柩』(10年以上前の作品だが、この夏に講談社文庫で全4巻完結したばかり)である。大スケールの“過去の予想”の物語は、ふつうの人にも楽しめよう。
 この娯楽作品の中に主人公の発言として紛れ込ませていて、“そうだよ、この人はこれが言いたかったんだ”というようなところがあるが、以下はそのいくつか。
 
 「プラトンの話が本当で、アトランティスが海に沈んだとしても、その文化の痕跡は必ずどこかに継承されたはずだと学者たちは言う。なのに地球上のどこからも高度な文明の存在を示すものは発見されていない。それこそがアトランティスを否定する証拠だと彼らは嘲笑うんだけどね……一万一千年前だぞ。いったいなにが遺されるってんだ。石と金製品と土器以外はたいていが酸化してしまう。現に津軽の十三湊だってあのとおりだった。(略)」
 「中央と地方。そして過去と現在。人間ってやつは、その格差の図式からなかなか離れることができない。つねに地方の文化は中央よりも低いし、過去が現在よりも高度な文明を持っていたなどとは考えもしない。だからアトランティスも否定する。一万一千年も前に五千年後のシュメール文明やエジプト文明を超える国家があったなんてありえないことなんだ」
 「…考古学者たちは、古代の民が神に支配された生活を営んでいた事実は認めていても、肝心の神の存在を頭から信じていない。歴史を学べば学ぶほど聖書とは矛盾する。敬虔なクリスチャンで考古学者という人間はほとんどいない。考古学と宗教は完全な両極に位置しているんだ。聖書の第一ページは、全能の神が七日間で世界を創造したことになっているけれど、それが嘘なのは化石を見ても明らかだからね。聖典はすべて比喩や想像の産物だと思っている」(『竜の柩』3「神の星編」より)
 
 今回の東北ブーメラン・バスツアーでは、十三湊も木造の亀ヶ岡も、ただ通り過ぎるだけだった。また今度は、太宰も書いていない湖沼の連なる津軽平野の西側を、改めてゆっくり歩いてみたい。男鹿半島へ行く日の早朝、秋田佐竹藩の久保田城付近を散歩していて偶然発見した菅江真澄と『東日流外三郡誌』の関連、そして秋田と安東氏の末裔のかかわりがあることも、ツアーから帰ってきてわかって、なにやら不思議な気がした。
 どうでも、もう一度訪ねてみたいが、しかしここも電車とバスと自分の足で歩くには相当に不便そうで…、うん、ますますやる気がでる。
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 もうだいぶ昔のことになるが、初めて東北を旅したときに路線バスが通る街角の地名を示す表示に「ぜんくねん」とあるのを見て、感に打たれたことがあった。同じように秋田には「ごさんねん」というJRの駅が今もある。東北はあなどれん。
 以来、東北地方もだいぶ回ってはみたが、なにしろ広い。まだまだ行っていないところは多いが、岬めぐりでは男鹿半島の入道崎も長年の懸案の一つになっていた。ここは白黒に塗り分けられた灯台と北緯40度を示す岩と、開けた草原と岬の先端に固まる岩礁の水島が広がるわかりやすい岬になっている。特別な思い入れがあるというわけではないが、これで日本海側の岬の主要ポイントの一つはゲットできた。
 八郎潟はとうに干拓でなくなってしまったが、地図でも特異な特徴を示している。日本ではここにしかないといわれても“ええっ?そうなの?”といいたくなるが、爆裂火口湖(マール)が戸賀湾も勘定に入れれば四つも並ぶ、めずらしい地形なのだ。これが全部一度に視界に収められる場所はないので、八望台で我慢しなければならない。
 寒風山よりもほんとうは男鹿半島をぐるっと一周したかったのだが、まあ今回はバスツアー利用なので、しかたがない。
 このバスツアー。参加者も添乗員もコースプランも、いろいろと、突っ込みどころ満載のヘンなツアーだったので、これをネタにすればいっぱい書けるのだが、それはおいて。
 上野から下北・津軽・白神・男鹿をぐるっと回ってまた戻ってくるという「ブーメランツアー」で、バス最長不倒距離をあっさり記録更新。
 今朝もまだ体がバスに揺られているようで…。とりあえず証拠写真はこんなので…。
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 八丁堀の同心を主人公にし浮世絵をからめた時代物を読んでみたら、わりとおもしろかったので、その同じ作者の作品をとみると、「記憶シリーズ」というのがあった。直木賞を『緋い記憶』でとったあと、たくさんの「○○記憶」と銘打った作品を発表している。(この作家は、22歳の浪人中にデニケンの『未来の記憶』を読み衝撃を受けたという。ほーか、ほーか。オヌシものう。そういやぁ、『明日の記憶』というのもありゃパクリかのう。)
 とりあえず、その記憶シリーズのひとつを読んでみると、そのなかの作品のひとつで、こんな一節に出くわした。
 
 「(略)今の歳になって思えば、遊びの記憶のほうが大きな位置を占めている。しかし、その当時にすれば遊びは日常である。だれが勝ったとか、鬼がだれだったとか、いちいち頭に刻もうとはしない。これはだれに訊ねても同一のはずだ。トランプ、すごろく、馬跳び、ドッジボール、竹馬、メンコ、チャンバラごっこ……子供の頃に遊んだものは無数にある。なのに、その記憶を辿ると、その一つ一つについてはっきりとした記憶はわずかしかない。そして、その記憶をさらに手繰ると、好きな女の子が加わっていたトランプだったり自分がホームランを打って逆転したソフトボールの試合だったりする。菊池の言葉通り、遊びの記憶がメインではないのだ。特別なことがそのときに起きたために、その遊びがきおくされていくというのが本当だろう。子供の頃のことなので記憶が曖昧になったというのでもない。その証拠に遠足や運動会などはたいていが何年にも渡って覚えている。一年のときはどこ、二年のときはあそこ、三年はここだったという具合に。遠足という言葉から一つのイメージしか浮かべない人間の方が珍しい。」(高橋克彦『緋い記憶』(文春文庫版所載「言えない記憶」より)

 広島に原爆が落ちた二年後の8月6日に生まれ東北に育った、いわゆる団塊世代のこの作者も、こども時代の遊びについてはでんでんむしと共通する。というより、地域性や時代のズレによる違いも少なからずあったはずだが、日本全国いつでもこどもの遊びは同じようなことをしてきたのも事実なのだろう。
 この作品のなかには、缶蹴り、釘刺し、ケンケン、陣取り、ビー玉、そしてフラフープといったたくさんの遊びのこともでてくる。
 おせっかいなでんでんむしは、数年前小学校の卒業50周年の同窓会があったときに、小学校時代の思い出を引き出すメモをつくっていた。そのなかから、「遊び」の項目を抜き出してみる。
 
◆昭和27年青崎小学校卒業生50周年同窓会を記念して作成 2002/10 「遊び」
・ 男の子は「駆逐元帥?」で校庭いっぱいに駆け回り、「にっさん」と呼んでいた日月ボール(けんだま=自分で削ったり磨いたり色を塗ったり、カスタマイズして)や「馬跳び」。
・ 女の子は「まりつき」や「おじゃみ」、それに輪ゴムをつなぎ合わせた「ゴム段」が息長く続いていました。
・ いまではルールも忘れてしまっていますが「Sトン」や、名前も忘れたガバティみたいな四角の陣地をくぐり抜ける遊び、陣取り要素を加えた「石蹴り」、それになんといっても「ろくむし」でしょうね。これらは、男の子女の子がいっしょになってよく遊んでいたものです。
・ 学校の校庭には、鉄棒、高鉄棒、うんてい、ジャングルジム、竹のぼりなどの遊具があり、遊動掩木(こんな字だったのかな)では、事故もあって使用禁止になりました。
・ 家の近所のごみごみした所では「缶蹴り」がおもしろかったし、学校では一応禁止?になっていたのかもしれないビー玉(当時広島ではこうはいわなかったが…ラムネ?)やベッタ(メンコ)もよくやりましたね。
・ 土の道に釘を打ち込んでいく「釘立て」というのもあったし、手のひらをいっぱいに伸ばして半円を描き陣地取りをする遊びなど、地べたに這いつくばって遊んでいました。
・ インドアでは、将棋やトランプも盛んにやりました。将棋は、はさみ将棋か「がちゃ」「歩まわり」、トランプは「ばば抜き」「七ならべ」はちょっと小さい子向きで、「51」はけっこうはまりましたよ。
・ 「三角ベース」やキャッチボールやノックなども、用具などろくにないままによく野球まがいの遊びもしていましたが、行方不明になったボールの捜索時間のほうが長かったりしました。
・ そのほかにも、もっともっといろんな遊びがありましたが、学年やクラスを越えた友達といっしょに遊ぶ中で、大切な社会性を学んでいたのだと思いますね。誰も高価な道具を使うわけでもなく、みんないっしょに遊ぶことができ、つぎつぎにバラエティに富んだ遊びをつくり、流行らせていたこの頃のこどもは、「遊びの天才」でした。
・ わたしたちの時代には「そろばん塾」はあったけど学習塾もなく、まだまだ「こどもは遊ぶのが仕事」の時代でした。

 もっとも、これは小学校という関連で抜き出した記憶なので、このときは虫取りにかけまわったことや、川止めとか、自転車のリムの輪を棒で押して回したりして遊んだようなことは、浮かんでこなかったらしい。名前や呼び方や、あるいは遊び方やルールにはいくらか違いがあったとしても、その地方だけでしか流行らなかったこどもの遊びというほうが少なかったのだろうか。「釘刺し」→「釘立て」のように、呼び方は違っても同じ遊びが、戦後の一時期(いまではもう完全にすたれているだろうから)盛岡でも広島でもあったのだ。この遊びの全国均一化傾向は、フラフープやホッピングあたりからはいっそう顕著になるが、それでもわれわれが夢中になって遊んだ遊びのことを話してもまったく通じないという経験もあるのだ。「ろくむし」や「Sトン」などは、誰に話しても通じたことがないので、よほど地域性が強い遊びだったのだろうか。
 ときどき、仕事場の前の小学校の校庭で遊んでいるこどもたちに「ろくむし」や「Sトン」を教えてやったらどうだろうか、と思うことがあるのは、そのとき限りのチームを組んで仲間と遊ぶ楽しさが、そこに凝縮されていたような印象がいまだに強いからだろう。
 遊びの記憶を辿っていくと、季節の故かなんとなく半ズボンにゴム草履にランニングシャツ、麦わら帽子をかぶって、ムシ取り網をもったはな垂れ小僧の姿が浮かんでくる。
 数年前ほんの短い間、4chが『花田少年史』というアニメを放映していたことがある。原作のコミックも知らないが、その題名に魅かれたのと、その通りの姿でここにでてくる花田一路こそはわれわれのこども時代そのものだったという、懐かしい思いがあふれるふしぎなアニメだった。
 これが近々映画化されるらしい。全国を歩き回った監督が「原作の素朴なイメージにぴったり」とそのロケ地に選んだのが、なんと広島の忠海という瀬戸内沿いの小さな漁港と山に囲まれた町だった。
 あの懐かしさは、やはりただごとではなかった。b0095231_5462252.jpg
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