カテゴリ:思い起こせば( 13 )

 14日は友引だった。今でもこういうことは厳重に守られているので、広島の叔母の葬儀と東京でのどうしてもはずせない重要会議が、その翌日に重なってしまった。なんとか義務を果たして早めに切り上げて駆けつけたが、叔母はもう骨になっていた。
 涙など見せるつもりはなかったのに、その白い布に包まれた箱を見た途端にこみあげてくるものが抑えきれない。自分の過ぎ去りし日々と叔母の思い出が、その瞬間に重なってしまった。
 府中町時代の思い出は、旧ブログでも結書いていた。たとえば、
 国道二号線
 初めて泳ぎを覚えた海
 「バタンコ」と「東洋工業」 
 消えた山と川
などがそうである。あれ前にはどう書いていたかしらと、旧ブログを検索してみるが、なかなかうまく拾い出せない。長いことほったらかしのこういうブログは、検索もだんだんできなくなるのだろうか。ぼつぼつこれの始末も考えなくてはならない。
 原爆後、祖父と高校を卒業するまでを過ごした広島県安芸郡府中町は、今でも安芸郡府中町のままである。広島市との合併話は中学生の頃からくすぶっていたが、いま周囲を全部広島市に取り囲まれながら町のままでいる。当時からいわれていた合併しない理由は、マツダの本社所在地であるため税収などで財政に比較的余裕があるからだと噂されてきた。
 その頃から、多少は住民税が安いとかいわれてきたが、住民としてとくに恩恵を感じたことはない。今がどうかは知らないが、無計画な乱開発と細切れの地面をそれぞれが勝手にしてきた結果として、なんともいえないごちゃごちゃとした景色と佇まいをつくりだしている。
 同じ府中町でもちょっときれいに整ったところもあるのだろうが、中心部からはうんとはずれたところにあって、町づくりの構想からもはずれているのだろうか。
 大阪へ東京へと流れていくともう、“遠きにありて思うもの帰るところにあるまじや”という昔の詩人の心境になってしまうが、それの原因の一つは、少年時代を過ごした場所が壊れていったなれの果てを、どうしても受け入れられないという気分がある。
 生前の元気な叔母の姿を見た最後になったのは、3年前に訪問したときになる。そのときに、いとこに頼んでホテルに帰る前に周囲をぐるっと車で回ってもらった。車内から撮った写真は、どうみても自分の暮らした府中町ではなかったが、唯一船越峠だけはほんの少し昔の面影を留めていたし、山陽本線の鉄橋のそばにあるあちこち欠けた石の橋の欄干がそのままにある。歩き回った山や、川止めをし小魚を追った川は、跡形もなく、懐かしくも美しい風景はもはや遠い思い出のなかにしかない。それは悲しくも痛ましいことで、見るに忍びないとさえ思う。
 多感な時代の舞台となった土地と場所を語るには、これまで書いたことだけでも不十分な気がするのだが、さりとて何をどう記録しておけばいいのか、何を残し伝えたいのか、どうにも整理がつかない。
 それが、ふるさとを捨てざるを得なかった流れ者の宿命なのだろうか。
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 昨夜、広島のいとこから電話がかかってきて、叔母の急逝を知らされた。いつか、こういう日が必ず来るとはわかっていても、何とも言えぬ感慨が胸を塞ぐ。大正の終わりに生まれた叔母は、もう歳に不足はないとはいえ、長い患いもなくポックリ逝ったのは立派な最期だった。
 肉親もなく係累の少ないでんでんむしにとっては、叔母二人がいちばん近しい人だったのであるが、それも大阪・東京と流れてきたので、めったに会うこともかなわなかった。遠く離れて住むということは、いたしかたのないことながら、疎遠になってしまう。3年前に広島に帰って訪ねたときが最後となった。
 思い起こせば、原爆の落ちた年の夏が来る前に、市内の実家を離れて府中町にあった畑小屋に、叔母がその長男である小さいいとことわたしを連れて、三人で当座しのぎの疎開生活をしていたときには、彼女はまだ二十歳そこそこであったのだ。
 その後、成人前までの約15年間を、隣家に住んでいた時期も長く、いとこたちとも兄弟同然に暮らしたので、叔母にまつわる思い出はたくさんある。昨夜はそれらが次々と溢れ出してきて、ただぼんやりと何時間も過ごしてしまった。
 そんななかでも、小さい頃の記憶は食べ物にまつわるものが多くなるらしいが、食料も充分にない時代の代用食のようなものだったのだろう、じゃがいもをつぶしてフライパンで焼いただけの油で揚げないコロッケ様の食べ物が、とても強い記憶として残っている。それをつくってくれた叔母のことが、いつもなにかのときにはフラッシュバックしてくるのが不思議だ。
 わが家の秘密をいえば、二人の叔母はわたしにとっては特別の存在であった。なぜなら、二人は「わたしの父の異母妹であり、同時にわたしの母の異父妹でもあった」からである。
 そしてまた、府中町の思い出は、土地と場所の記憶の古いページをめくり始める。b0095231_86660.jpg
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 転勤で住む場所を移り変わったことは、二度あった。一度が大阪から越谷市の蒲生へであり、もう一度は広島から大阪へ本社が移転するのに伴っての転勤であった。それは、1963(昭和38)年のことである。当時は大阪府北河内郡門真町という移転先の住所を聞いて、どえらい田舎と想像したものだったが、なにしろ恐れ多くも松下電器の本社があるところだ。結局ここには1年いて、翌年には同じ大阪の郊外で今度は南河内の柏原市に移転した。柏原(かしわら=「かしはら=橿原」とは違うので、“河内のかしわら”と説明したりしていた)には、蒲生に行くまでの5年間を過ごしたことになる。
 これらの大阪時代の土地と場所の記憶については、前の「重箱の隅でごろごろごまめかな」ブログで、断片的に書いていたことがある。門真のことについては文化住宅の火事のニュースに関連して、柏原のことについては“大阪に住んだ頃”としてまとめて書いていた。
 それらを参照してくれというのも不親切だが、これらと重複しないように書こうと気を使うのもまた面倒だ。気にしないでいこう。
 柏原は、信貴山の山並が大和川に落ち込んで切れるその河内平野の山すそのところにある。ここに住んだ5年間と門真時代を通算して足掛け7年の大阪河内暮らしも、knaito57さんが蒲生についてつけてくれた、“けれどもこの土地は夫婦の歴史の中で、またお子たちの遠い記憶の中で「若かった父さんが手探りしていた頃の場所」として小さくはない意味を持つと思います。”という、そしてそれはご自身の経験にもつながるのであろう、真情溢れるのコメントのとおりだ。長い人生の間でも、若くて未経験で頼りなく、それでも懸命に生きなければならなかった、そういう時代であった。
 柏原では平野というところにある、ブドウ畑などをもつ大きな古い農家の貸家を借りていたが、ちょっと山に入りかけたところにあって、西を望むと河内平野が広がっていた。あたりにはブドウ畑、イチゴ畑が続き、その中を桜の並木道が真っすぐに近鉄は大阪線の法善寺という駅まで続いている。レンゲ畑もそこここにある、実にのどかな田園風景を、まだ充分残していた。
 東京へ行ってからのことだが、近鉄特急に乗ってここを通り過ぎたとき、必死に窓の外を眺めていたが、もう法善寺の駅から山も見えないほどぎっしりとアパートや文化住宅が埋め尽くしていて、その軒をかすめるように走りすぎた。センチメンタルジャーニー気分も、あっけなく消え去った。
 その頃からも、通勤時は法善寺の駅からはもう座れないので、高安まで行ってそこから始発電車に乗り換えて、上六まで行く。上六からまたバスに乗り換えて、…乗り換えて…あれ、どこまで行っていたのだろうか。当時の会社は天神橋筋の二丁目の天満の天神さんのそばだったので、南森町で降りていたのだろうか。あるいは、北浜二丁目だったのだろうか。
 門真の古川橋から通勤していた頃は、京阪の天満橋から歩いて天神橋をで中の島を渡って通っていたのだが、どうももうこの上六からのバスがどのへんを走っていたかの記憶になるとはっきりしなくなっている。
 平均年齢が20代という若い会社は伸び盛りでもあり、そのエネルギーが広島を飛び出して大阪に本社を移し、その後10年を待たずに梅田近くに本社ビルをもつようになるには、当然ながらちょうど吹き始めた高度成長期という追い風があった。
 当時はまだ、会社の行事でもなにかというと宴会がつきものであった時代で、ずらりとロの字型にお膳と座布団が並ぶ座敷で、差しつ差されつということもあったが、でんでんむしはすでにそのころから立派なはぐれでんでんむしだったので、先輩や上司の杯も拒否し続けていた。それが、いじめにつながる要素と土壌さえも充分に残していたのだが…。
 一癖も二癖もあるような個性的な社員も多かったが、やがて大卒の新規採用を毎年定期でやるようになると、長い間にはだんだんとそういうクセモノは追い出されていくようにも見えた。そういう侍達が飲んで酔っぱらうと、必ずだみ声を張り上げて歌う歌があった。カラオケなどはまだない時代なので、不揃いでいい加減乱れた合唱のようになるが、その歌は当時も社歌があったわけではないのに、一部で「第二社歌」といわれていた。その歌詞はこういう。

 “あ〜すは東京へ出てゆくからは〜 な〜にがなんでぇ〜も勝たねばなら〜ぬぅ〜”

 でんでんむしが東京へ転勤になったのも、そういう大きな流れに押し出され流されてきたともいえる。もともと広島から流れてきたので、“大阪で生まれた女やさかい東京へはよういかん”という執着もない。ただ、流れていくしかないのである。
 それが、やがて“哀しい色やねん”とみえようとしても…。b0095231_9104233.jpg
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 地下鉄に乗って、築地から蒲生まで行ってみた。1968(昭和43)年4月から14か月間、週のうち6日を通勤で往復した路線である。地下鉄は日比谷線だが、東武伊勢崎線と相互乗り入れをしていて、北越谷と中目黒の間をジュラルミンだかアルミだかの銀色に光る、角の丸い車両が走っていた。今ではどこにもある相互乗り入れも、この線がハシリだったような気もする。
 北越谷ですでに座席は満員になるくらいだったので、当然蒲生からはもう座れず、東京へ向かう朝の通勤時は大混雑だった。北千住を過ぎキーンと大きな音を立てながらカーブを地下に入るこの三輪、入谷の辺がラッシュはピークで、ギュウ詰めの車内はますます潰されそうになったものだ。上野でほっと一息ついたもんだったなあ、と思い出にふけっているうちに、電車は地上に出る。
 ASCIIの大きなロゴの入った白い紙袋を下げたおじさんが乗ってきた。ASCIIかあ。これにもいろいろ因縁と思い出があるなあ。松原団地、あの当時車窓に目立っていた団地群も探さないとわからないなあ。
 おじさんもここで降りるのか。袋ばかり見ていたが、顔を見てびっくり。あ、な〜んだ、森永卓郎さんだ。そうだ、獨協大学の先生やってるんだから…。
 当然といえば当然なので、驚くにはあたらないのだが、高架になった蒲生の駅や、駅前の通りも一変している。この先ではJR武蔵野線がこの南では外環自動車道のチューブが東西に貫き区切られている。
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 よく人は“浦島太郎の気分”という比喩を使う。だが、そういう場合でも、なんらか見知った見覚えのあるなにかが、一つ二つはあるものだが、ここでは40年近く前の面影はまったくない。
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 駅前の一本の商店街の入口には“30人31脚全国大会出場”を祝い応援する横断幕がはためいている。この道もあるにはあったはずだが、こんな感じではなかった。
 当時は日光街道に出るともうその先は田んぼと畑がどこまでも広がっていた。雨の日など道が泥んこになるので、田んぼの中の道を長靴を履いて通勤したこともあるのに、それがアパートとマンションと建売り住宅で、くまなく埋め尽くされている。
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 古い農家の裏庭に建てられた三軒の小さな貸家の一軒を借りていたのだが、その当時の借家はもうないとしても、大家さんの家は今もあるはずだろうな。大きな屋敷の前のこの一角だけに、少し田んぼが残っている。この辺りだったような気がするが、場所も道もさっぱりよくわからない。
 家の回りも泥土で、そばには農業用水らしいがついでに下水の役目も果たしていたようなどぶ川が流れていた。このほかにも家から少し歩くと、こどもを連れてフナなどをすくいに行った、遠くでは綾瀬川につながる小さい川も数本あったはずだ。
 越谷は実は、昔はちょっとした水郷で、なにしろ漁業協同組合があったくらいなのだ。田畑のあちこちの農家の屋敷林がこんもりと茂る以外には、どこまでも平坦な地形は、夏など朝も4時過ぎから「アサーッ」とばかりに太陽が照りつけるのには、びっくりしたものだ。それまで暮らした広島でも大阪でも、山があるからそんなことはないので、それが“関東へやってきた”という実感だった。
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 川はどうだろう。まだ残っているのかしら。ソフトボールくらいは優にできる、かなり広い公園の空き地があった。そこで掃除をしているおじさんに声を掛けて聞くと、その川はもう道路になっているという。地主が市に貸し出して提供している公園の土地は、このおじさんのものらしい。
 まあこのベンチに座りなさいといって、いろいろとしてくれた話を総合すると、この蒲生の辺りは昔は八軒家といわれ、農家もそれくらいしかなかったのが、農地解放で小作に提供されて、大地主は減った。それも坪700円で取引されていたものが、急激に値上がりし一躍お大尽になった農家も多かった。しかし、そんな泡銭を投機ですってしまったりする家もかなりあったという。
 このおじさんも大地主の分家だったが、戦争中は憲兵をしていたので、戦犯容疑に問われたこともあるのだという。
 「すっかり変わりましたわ。見る影もないね。公園にもああして落書きはするし、高校生くらいの女の子までタバコを平気で吸うんですが、下手に注意すると、こっちがやられるからね。日本はいったいこの先どうなるんじゃろうかと思いますな。」
 このおじさんにも、いいたいことはたくさんあるのだ。
 蒲生に住んでいたのは、田中角栄の「日本列島改造論」が出る4年前のことである。なにもここばかりに限ったことではないが、“地本主義”の世の中のひずみの延長線上に、われわれもまた引っかかっている。やっぱり、若者には日本史も地理も必修にすべきなのだ。
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 川だったとおぼしきところには、真っすぐな広い道路が走っていた。並木の桜は、急速に赤く色づき始めたようだ。家の間を歩いて行くと、昔先祖供養をしてもらったこともあるお寺の前に出た。あの頃も大きなお寺ではあったが、なんだかすごく立派になっている。
 引越の荷物を積んで、大阪から走ってきたトラックが、家のそばまでの道が狭くて入らず、この辺りに停めて運んだりしたんじゃなかったかしら。
 もともと、ここに住むと自分で決めたわけではなかった。会社が通勤に便利だろうと、転勤にさいし借りてくれた借上げ社宅だった。それに、蒲生の14か月は、東京に腰を据えて暮らし始めるための準備期間になったので、必ずしもここに愛着があったというわけではなかった。
 それでもこの地に立ってみると、人が生きるということには、実にいろいろなことがあるものだと改めて思う。そして、そのほとんどを忘れながらここまできている。b0095231_7562859.jpg
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 まだ若き芭蕉もその工事にかかわったとされる関口の堰から、石の水樋を通して引き込んだ神田川の水を、江戸の上水道として送水していた時代、水樋の橋があったところからその名が付いた水道橋は、何年ぐらい通ったことになるのだろうか。
 この駅も、後楽園と例の黄色いビルがあるし、付近に大学・学校なども多いので、結構乗降客で混雑していた。後楽園ホールの「笑点」の収録に向かうとこらしい円楽が、黄色い電車から降りてくるのをみかけたことがあるが、あの頃の司会は談志だった。
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 駅と神田川の北側は、ドームができ高層のホテルができして、随分と変わっている。南側はあまり変わっていないように見えるが、それでも多少ビルも高くなったようだし、店なども全般にこぎれいになっている。
 一応神田のはずれにあたる、白山通りからさらに西側に何本か寄った裏通りの小さな雑居ビルに、会社の東京支社が移転したのは、1970(昭和45)年頃のことだったと思う。それから、本郷に移転するまで13年間、ここに通ったことになる。今にして思えば、そんなに長いこといたのかという感じがする。
 会社の本社と雑誌部門は大阪にあったが、東京ではここを書籍出版部の拠点にして単行本事業を本格化させることになり、でんでんむしも編集者として新たな決意と使命感に燃えていた。編集者の仕事は、勤務時間内のことではないので、エエカッコウでいえば24時間いつも仕事のことを考えているような毎日だった。単行本では後発版元だったので、それ故の苦労もしながらも制作点数もどんどん増え、なかには売れる本も出せるようになったし、書店の店頭では先行している大手版元の本に伍して、自分たちの作った本がたくさん並んで目立つようにもなった。
 今でも、年に一度の忘年会でこの頃の仲間が顔を合わせることがある。すると、酔っぱらうと「いやー、あの三崎町の頃はよかったですね」というような話が必ずでてくる。人間は、とかく過ぎ去った昔のことが懐かしいというだけでなく、それはとてもいい時代いい時間だったと、思いたがるのかもしれない。
 決して恵まれた環境とはいえないところで、みんなが大きな挑戦目標を持って、それぞれに一生懸命だった。きっと、その経験が思い出を美しくする、それが尊いのだろう。
 思い起こせば、高度成長期だったということもあるだろう。年齢的にはまるまる30代から40代初めにかけてということで、働き盛りということもあっただろう。水道橋・三崎町の時代には、広島カープが初めてリーグ優勝したり日本シリーズを制したりした。仕事の視察ということで、初めての海外旅行でヨーロッパにも行き、アメリカの西海岸と東海岸にも、海外からの旅行客を受け入れ始めて間もない中国にもでかけた。YAMAHAのいちばん小さいヨットを買って、観音崎や久留和や森戸の海でセーリングのまね事をしたり、雑魚釣りにも精を出した。
 だが、この時期に遭遇し、自分の生涯でいちばん大きなエポックとなったことは、世界に初めて登場したマイコンとの出会いであった、というべきかもしれない。初めてのBASICマシンを買って会社でいじり始め、その後個人でも買えるようになって、家と会社を電話回線でつないでマイコン通信の実験を試みたのも、この時代の終わり頃だった。
 西口の駅を出たガードの付近の感じは、昔と変わらない。ここに来た当初は、この先橋の西側にはだるま船が着いて、そこから清掃車が運んできた大量のゴミを積んで、せっせと海に運んでいたが、さすがにそれはもうないようだ。
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 三崎町から移転して以来、めったに来ることがなかった水道橋に降り、引越以来何十年ぶりに駅前から南に歩いてみると、見覚えのある通りは、いちだんと賑やかになって、歩道もきれいになっている。路地に入ると、わずかに見覚えのある建物や看板もあるが、初めてのところを歩いているような気さえする。
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 会社のあったビルの裏手には玄関に植栽を施したマンションができている。1Fから4Fまで、ばらばらと部屋を借りていた古いビルも昔のままの色で健在で、この窓の4階から3階へ太い同軸ケーブルをたらしてマイコン同士をつなぐことまでやってみたのは、LANなどという言葉もない時代だった。当時から入居している会社の看板まで同じで変わっていなかったが、昼休みにみんなでたむろしていた二つの喫茶店のうち、一つはもうなかった。いや一つでもまだ残っていたというべきか。
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 昔この辺りは、川と高速道路と飯田橋の操車場とで完全に西へのつながりを絶たれていた。それがなんと、ビルの横前からすぐ飯田橋方面に渡る橋ができている。土地と人とのつながりは、転勤や引越や転職やで、簡単に切れたり変わったりしてしまう。だが、土地はどこまでもいつまでもつながって、常に残っている。b0095231_6393462.jpg
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 人間がどんなところにどのように暮らし、どんな土地を知ってどんな土地を知らないか、それもまったく縁というものである。狭い日本もあちこちに多くの町や村やあるが、その人が一生のうちに生活したり仕事で毎日のように行き来しているところは、どうしても限られてしまう。
 「つきじ」という地名についても、かなり昔からその名前だけは知っていた。それらは、当然ながら活字から得た知識であって、たとえば小山内薫の築地小劇場があったとか、小林多喜二が築地警察署内で拘留中に拷問を受けて死んだ所とか、日本で最初に活字ができた築地活版所があったとか、著名人の大きな葬儀が行なわれる築地本願寺があるとか、そういうことであった。
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 今、隅田川を越えて、お昼ごはんを食べに築地市場の場内まで足を運び、ターレーに発泡スチロールの箱などと乗ったおじさんたちが溢れるなかを、それでも邪魔にならないように気をつけながら歩いていたりするが、ここ築地も結構古くから縁があった場所なのである。
 思い起こせば、あれは1968(昭和43)年の遅い春の頃だったが、大阪の本社から東京の支社(まだ“東京事務所”といっていたかもしれない)に転勤になってやってきたとき、その支社が築地にあった。まだ、廃止になる前の都電が走っていて、京橋郵便局の向かい辺りから新富町・八丁堀方面に線路が延びていてそこに「築地」という停留所があった。今のバス停の「築地」がその中心であるはずの新大橋通りの交差点ではなく(ここは「築地三丁目」)、松竹の青いガラス張りビルの前にあるのは、その名残りなのではないかとにらんでいる。
 当時の東京支社は、電通の本社や中央区役所にも近い、築地橋のそばにある雑居ビルのワンフロアにあった。そのビルは今もあるが、何度か持ち主が変わってきたらしく名前も変わっている。築地橋の下はすでに川はなく、道路工事の途中で中断したような趣で放置してあり、昼休みなどはそこに降りてシートノックやキャッチボールなどする人が多くいたが、驚いたことにそれから40年近くにもなるのにその趣は変わっていない。ただ、キャッチボールなどできないように厳重な囲いがしてあるだけだが、この下にには有楽町線新富町の駅がある。
 結局、2年くらいしてワンフロアでは手狭になって、商品の出し入れに便利な1階を確保する必要があって水道橋の南側、神田三崎町に移転したので、ここにはわずかしか通わなかった。家と会社の間を地下鉄の日比谷線に乗って往復するくらいで、付近を歩き回ろうという余裕もなかったのだなあ、と今なら思える。築地玉寿司は行っていないが、宮川のウナギはよかった。
 当時はなんとなく敷居が高くて近寄りがたく入りがたかった、築地本願寺や築地市場は、今では散歩コースでよくお邪魔している。
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 この「築地」は字の意味の通りで、江戸時代の埋め立てで開けた。当初は日本橋にあった本願寺も魚河岸も、埋め立て後に移転してきたという。市場はもっと後の話になるのだが、本願寺については幕府が移転させようとした場所はまだ半分海であり、それを佃島の漁師などの信徒が協力して船で土を運んで埋め立てた、という話が伝わっている。でんでんむしも関東へやってきたとき当惑したのは、浄土真宗のお寺がほとんどないということで、埼玉にいたときには父母や祖父母の年忌を近所のお寺に相談に行ったら、気軽に引き受けてくれたものの聞いたこともないお経をあげられたことがあったが、考えてみれば築地本願寺にお願いすればよかったのだ。
 勝海舟らの軍艦が係留してあった築地は、明治時代には海軍の施設ができ、築地市場になるのは昭和10年からである。70年の歴史を経た市場も、手狭になり老朽化が進んだため6年後には豊洲に移転することが決まって、すでにゆりかもめも「市場前」という駅をつくって待っている。これも、当初は反対も根強かったが、いつのまにか地元も業者も賛成ということになった。だが、場外だけはそのまま残るのだという。場外もほとんどはプロの飲食店などがお客で、通勤時間をちょっと過ぎた頃地下鉄に乗ると、よく竹の四角い篭をさげた長靴のおじさんやおばさんがいたものだ。
 昨今では土日に限らず、観光客で賑わい、ガイド本も多数出されていて、テレビもしょっちゅう映しに来る人気スポットになっている。有名な店の前には行列が切れることがなく、ギャルからおばさんや中国人の団体までが、たくさんうろうろしている。それまでたいして人が入っているように見えなかった店の前に行列ができるようになったのは、テレビでやったからなのだ。場内が移転してしまった後も、場外だけでせっかく価値が出てきた「築地ブランド」を維持できるのだろうか。
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 場内の市場が移転した跡地は、いったいどうなるのだろう。東京都はオリンピックのメディアセンターにする計画だという。オリンピックなど一時のお祭りで、祭りの後はどうするのか。石原君は記者会見で「NHKがくるでしょう」とうっかり口を滑らしたか、あるいはそう見せかけてわざとリーク発言したようにして様子を見たのか、そういっている。もちろん、NHKは「そのような計画はありません」と否定しているが、それも当然なのだ。
 結局、どうなるのか、こういうこともちゃんと押さえながら成り行きを見守っていくと、おもしろいことがわかるかもしれない。
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 松山はうらやましい街である。毎週土曜日の昼にNHK-BSが『俳句王国』という番組を、この松山から放送している。出ている人が全部松山の人というわけではないが、松山でテレビ句会をやるといえば全国から人がやってくる、そういうことが可能な歴史と文化と風土を保ってきた街であるということがうらやましい。
 思い起こせば、広島とは目と鼻の先であるといってもいいこの街には、長いこと訪れることがなかった。初めて松山に行ったのは、東京へ来てからのことである。それも仕事で。
 今回は、たまたま往路の飛行機が遅れて当初の計画が崩れてしまったために、ただ空港を利用させてもらうだけのつもりだったが、帰りがけにここで飛行機に乗るまで2時間ちょっとの余裕ができてしまった。これが4回目の松山である。
 150円均一の市電に乗って、道後温泉に向かう。今年は坊ちゃん100年とかで、いたるところに幡が揺れている。ご多分に漏れず中学生のときに初めて『坊ちゃん』を読んだ。なんとなく気に入って『猫』も読み、『三四郎』も読んだ。ついには『虞美人草』も『こころ』も『明暗』も読んだが、こういうものは中学生の分際でわけもわからずに読むものではない。
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 道後公園の森の脇に、なんとも立派な市立の子規記念博物館ができている。結構たくさんの資料が、ちゃんと残されているのも土地柄というものであろう。だが、ひがみ慣れているへそ曲がりの目からみると、いかにもハコモノ行政の象徴のように見える豪華で威圧的な建物の印象は、泉下のノボルサンもさぞ苦笑いしとるんじゃなかろうか、と思わせてしまう。
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 道後温泉の高級旅館にも、一度だけ泊まったことがある。そのときは観光客らしく茶菓子付きの2階か3階へ行ったのだが、せっかく来たのだから、今回も重要文化財の道後温泉本館に立ち寄る。
 いちばん安い1階の一時間以内400円の入場料を払い、記念タオルを200円でもらい、自動販売機で50円のかみそりを買う。
 うっかりひげそりを持ってくるのを忘れてきた。旅館にはたいていあるだろうと高をくくっていたが、来てみると二晩ともそんなものはどこにもなかったのだ。
 坊ちゃんも入った、誰もいない静かな古い温泉にゆっくりと浸かり、三日分の無精ヒゲをきれいに剃って、なんとなくモードも切り替わったような気がした。b0095231_7543266.jpg
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 岬へ向かう途中で、バスは八幡浜の中心の通りを走り抜ける。と、そうだったと突然気がついた。そうだ、ここが二宮忠八の生まれたところだったのだ。実は、世界で初めての有人飛行の一歩手前まで研究を進めていた不運な日本人がいたことは、ライト兄弟の成功の陰に隠れてあまり知られていない。一つの成功は、無数の失敗や挫折をも消してしまう。八幡浜を経由するのに、うかつにもそのことをすっかり忘れていた。
 「テレビ時評」のほうに書いたのと、少しダブってしまうが、初めて乗ることができた飛行機は、ついに日本の空から姿を消したあのYS-11だった。日本人で、初めて乗った飛行機がこれだったという人は少なくないはずである。
 とにかくヒコーキに乗りたい、そういう憧れは、こどもの頃からあった。しかし、実際に見たヒコーキは、空襲にやってくるグラマンの艦載機と原爆を落としていったボーイングのB-29しかなく、それ自体は憧れの対象にはならない。戦後はせいぜい新聞社や宣伝飛行機のセスナを見るくらい、あるいは白い航跡を一筋の雲に残して飛ぶジェット機だったが、空を飛ぶというしくみには興味があった。ご多分に漏れず竹ひごをローソクの炎で炙って曲げてゴム動力の模型飛行機を作ったり、バルサ材の骨格に紙を貼って翼や胴体に空洞をつくるグライダーを飛ばした。厚手の紙を切り抜いた紙飛行機などもよく作っては飛ばしていた。木を削ってモックアップ(というよりソリッドモデルか)を作るというのも挑戦したが、これは完成を見ないで挫折した。
 1965(昭和40)年の5月に東亜航空1号機のYS-11が「広島=大阪線」に就航している。ヒコーキに乗るのが目的で、就航して間もない広島空港(昔の広島空港は市内の南西の観音にあった)から大阪まで飛んだのが飛行機体験の最初であった。
 以来、飛行機に乗ることも、格別めずらしいことではなくなった今でも、できるだけ窓側の席にして、小さな窓から地上や雲の景色を眺めるのが好きである。
 今回の佐田岬/佐賀関の岬めぐりも、ANAの超割を利用してのプランであったが、先に書いたような事情で、大分も宮崎もとれず松山の往復となった。月曜日の早朝雨の降りしきる羽田空港は大混雑で、出発が30分も遅れて、計画していた伊予灘に沿って走る予讃線の各駅停車に乗ることができなかった。またしても波乱含みの予感であったが、それはひとまずおいて、ヒコーキのことである。
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 ボーイングの最新の量産機である777(トリプルセブン)に、初めて乗った。行きがB777-300で帰りがB777-200。wikipediaによると、開発に当たっては、ワーキング・トゥゲザーとして世界中の航空会社からも意見を取り入れて設計したという。
 コックピットの設計も、その意向を反映しているし、ボーイングのお得意であるANAからは、「トイレの蓋がバタンと閉まるのは乗客が不愉快に感じることが多いためにトイレの蓋をゆっくり閉める機能などの提案を行った。このトイレの蓋の提案に対しボーイング社は「いかにも日本らしい提案だ」として採用を決めただけでなく、他の航空会社へも積極的にPRを行った」(wikipedia)という。
 しかあーし! しかし、である。
 コックピットのことはわからんが、このB777シリーズには、乗客から見て重大な欠陥がある。全体に燃費と収容座席の確保のためとみられるが、軽量化が図られプラスチック部分が増えているようにも見える。
 目の前に前の座席のプラスチックの収納板が迫る。ひじ掛けの幅が従来の半分くらいに狭められ、隣の人とも親密に接触するし、このひじ掛けもプラスチックなのでひじを付いてもずり落ちてしまう。座席の奥行きは浅く、お尻がちょこんと載せる程度である。しかも、この座席がすごく硬い。こんな座席に1時間以上も縛りつけられていれば、かなり苦痛である。
 こちとら、お腹には肉がついていても、お尻にはそんなに肉がない。帰りにはもう、痛くて何度もお尻をもぞもぞさせていた。モノレールの座席に座ると、お尻がほっとした。
 トイレの蓋もさることながら、一番肝心な快適な居住性は軽視されている。それが嫌ならもっと金払ってスーパーシートに乗ればいいだろう、とでもいうのだろうか。
 ひとつだけ、B777で改善されてよかったと思うのは、備え付けの音楽の機内サービスを聴くためのイヤホーンが新しくなっていて、従来の長い間丸い二股のプラグを差し込み、コードが硬くグネグネして耳があてると痛い変なものではなくなったことである。これは、それこそYS-11の昔から、なんで最先端の飛行機でこんな妙ちきりんなイヤホーンが使われているのだろうと、不思議に思っていたものだ。
 航空会社の合理化は、サービスを切り詰めることでも、いろいろなところで進んでいるようだ。それも事実なのだろうが、気流の関係で機長から指示があったという理由で、離着陸のだいぶ前から客室乗務員も席に着いてしまう。まあ、どちらにしろ、国内線でのサービスなど、飲み物を配る以外には、とうになくなっているのだから、どうでもいいのだけれど。
 搭乗券の発券もSkipに切り替えたいようで、これも今回初体験だったが、これはそんなに早くから空港に行かなくてもいい、というメリットはだんだんにでてくるのかもしれない。
 それにしても、タマにしか乗らないのだから我慢してもいいようなものだが、いいやそうではない。タマにしか乗らないから、より快適に乗りたいのだ。ヒコーキも、もはや憧れになる対象ではなく、われわれのようなビンボー人でも乗る大衆化が進み、実用一点張りになったということで、だから座席など柔らかくなくていいということなのだろうが、それはなにやら考え違いの逆行退行現象のようにも見える。
 これからは、よほど使用機種にもよく注意して、乗る便を選ばなければならん。困ったもんだ。
 ついでにいえば、原爆を落としたB-29を造った同じ航空機メーカーの飛行機に、なんの違和感もなく乗っている自分も、ちょっとだけ変な気もする。b0095231_9585030.jpg
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 岬めぐりを意識し始めたのがいつからか、それも今となってははっきりしない。だが、いま整理してみると、おそらく10代の終わり頃に行った東尋坊あたりがその最初だったのかもしれない。
 そのときは、北アルプスの表銀座コースを歩いて、帰りがけの駄賃にというにしては大変ハードな唐松岳を越えて黒部渓谷の祖母谷に降り、疲れて棒になった足を芦原温泉で癒そうというリーダーの提案にくっついて行っただけなので、東尋坊も最初のプランにさえなかった。
 ところが、それまで、海といえば瀬戸内海のおだやかな海と砂浜と、ちっぽけな岩場しか知らなかったので、日本海の波が黒々とそびえる柱状節理の大岩に砕けるさまは、非常に深い印象を残した。
 「ここに地果て海始まる」と…。なにも読んだこともない外国の詩人の詩を引用などしなくてもいいのだ。地の果てるところというだけなら砂浜もそうなのだが、広大にひろがる海とせめぎ合う岩を眺めていると、まさしく岬こそ波との戦いにかろうじて残っている。そんな感じがして、それまで盤石と思っていた大地の不安定ささえも感じてしまう。
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 よくあるように「旅行が趣味」などとは、とてもいえない。そんな余裕のない身分であっても、会社のみんなと行く旅行とか、たまには仕事で知らない街に出かけることもある。そのときには必ず事前に地図を調べ、その付近の岬や単なる出っ張りに足をのばしていた。
 別に、“おいら岬の灯台守は〜”に影響されたからというわけでもないし、山本コータロー教授の歌にしびれたわけでもない。もともと灯台はなくてもよかったのだが、単なる出っ張りでなければ、やはりなにか点景がほしいところだ。そういう意味で灯台かそれに代わるなにかがあれば申し分ない。それがないと、結局どこの岬なのかのもわからないし、そもそも岬であるかどうかさえもわからなくなって釈然としなくなってしまう。
 ビックカメラのカレンダーは日本全図が大きくあしらってあって、紙も厚手でなかなかいいので、ここのとこ毎年もらいに出かけているが、このあいだ音を消して画面だけ流しているテレビで、元刑事のタクシー運転手夜明さんの部屋にも同じカレンダーが貼ってあったので、おかしかった。
 このカレンダーを眺めながら、行ったことのある岬をチェックして、まだ行ってない目立つ出っ張りをマークしておく。それが、いつか具体的な計画になって浮上する。
 カネとヒマに飽かせてやれば、別にどうということはない。
 カネとヒマもないなかで、無理をしながらぼつぼつとやるところに岬コレクションの意義がある。
 免許があればレンタカーでも借りて、ブーブーと行けば、どんな辺鄙なところへでもわけなく行くことができる。
 免許もないので、いちいち一日数本しかないバスのダイヤを調べて、何時間もかけてやっとの思いで岬の先端に到達する。これがまた格別楽しい。
 個人の好みや性癖のようなものだが、旅の計画をきちんと立ててから出かける人と、何もプランを立てることなくプラリと出かけて、あとは出たとこ勝負で行くという人がある。でんでんむしは、前者のタイプで、無計画な出たとこ勝負の旅行は、どうも落ち着かない。あたりが暗くなって、知らない街の駅に降り立ち、それから今夜泊まるところを探す、などというのはあまり好きでないのだ。
 この「計画を立てる」というのがパズルを解くようなところもあって、なかなかおもしろい。これも旅の楽しみのうちである。
 さて、去年の大物は鹿児島県の野間岬佐多岬だったが、今年はどうしよう。まだまだ行っていない岬はたくさんあるので、候補を探すのには困らないが、旅ともなると他の要素ともからんだプランが必要だ。
 旅行会社から送られてきたパンフレットを見ていると、「下北・津軽・男鹿 三大半島めぐりと紺碧の海に臨む五能線ローカル列車」というのが眼に飛び込んできた。下北も尻屋崎には行ったのに大間崎は行っていない。津軽も竜飛岬には行ったけれど十二湖のほうは通っていない。五能線も白神山地も男鹿半島も初めてである。温泉も見せ物もなし食事もなしで、泊まりは三泊とも八戸・青森・秋田市内のホテル。第一、一人参加ができるのがいちばんいい。これだな。
 そころがこのツアーコース、ローカール列車はほんの一部だけで、あとは全部バスなのである。実をいえば、閉塞感の高いバスツアーは、あまり好きではないのだが、これはお昼も勝手にどうぞというスタイルなので、これならまあなにごとも修行だと思えばなんとか我慢できる。
 東北岬めぐりのおさらいをかねて、申し込んだ。
 すると、こんどはそこへANAから「超割スペシャル」先行受付のお知らせメールがきたではないか。全国どこへでも7,800円。これを利用しないという手はないな。しかし、10月かあ。う〜ん。
 石垣島にも行きたいところだが、ここはなにしろ日本の外れ。那覇までが一区間、そこからまた一区間となるので、特別のメリットがあるというわけでもないし、今年は1月に行ったばかりだし。
 熊本の天草はどうだろう。岬もあるし、この辺りはホームページのネタ絡みもいくつかあるし。熊本からフェリー行くかバスで行くか…いろいろ計画を練ってみて、最後のところで天草観光協会の思いがけない情報にぶちあたる。大江天主堂がこの秋いっぱい工事のため覆いが掛けられ入場も制限されるというのだ。
 ええーっ。それじゃネタにできないじゃないか。このプランは、来年以降に凍結と決定。
 では、佐田岬はどうじゃ。なにしろ、ここは地図を眺めているといちばん岬らしい岬といっても過言ではないように思う。松山から佐田岬の先端まで行って、フェリーで豊後水道を渡って、佐賀関へ。津久見の辺の岬も回って大分から帰ってくる。いや高千穂によって宮崎に出るというのはどうじゃろか。西都原古墳群は一度ぜひ見ておきたい。
 しかし、バスの便がここも実質一日一本みたいなもので、そうとうに悪いなあ。
 あれこれ思案を重ねて、やっと今回は大分周りのほうが無難だろうか、と決心してANAの申し込みページを見ると、なんと「先行受付は終了いたしました」だと。前のメールを、パッと見て記憶違いをしていた。28日締め切りと思っていたのが26日締め切りだったのだ。値段も7,800円ではなく7,700円だった。
 当初の天草プランが流れたせいで、変更計画を練るのに夢中になって、こっちのほうの確認を怠っていたというお粗末。やれやれほんまだめじゃねえ、こんなことでは。
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 この頃は20日からというのだが、われわれがこどもの頃は、7月も25日からが夏休みだったような記憶がある。関東では、九州のような豪雨ではないがまだ連日雨ばかりで、夏休みになってもいっこうに夏にならない。8月にならないと梅雨が明けないだろうという。
 こうなると、あのジリジリと暑い夏が待ち遠しくなってくる。
 記憶のなかにある「夏の風物詩」は、数え上げればきりがないくらいたくさんある。それを、それぞれが自分の記憶のなかから探り出して並べてみるだけでも、その人がどんなこども時代の夏を過ごしたかが、なんとなくわかる。
 すだれ、風鈴、蚊帳、蚊取り線香、うちわ、麦わら帽子、夏休みの友(宿題帳)、氷屋(氷の塊をノコギリで切る)、海水浴、昼寝、ハエたたき、ハエ取り紙、ヤブ蚊、水鉄砲、ほたる、麦わらのほたるかご、さといもの葉、こうもり、おにやんま、きりぎりす、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクホウシ、イナゴ、バッタ、そうめん、かき氷、アイスキャンデー、ところてん、すいか、あじうり、もも、とうもろこし、きゅうり、なす、トマト、あさがお、ほうせんか、さるすべり、きょうちくとう、ひまわり、鶏頭、夏草、草いきれ、入道雲、夕立、虹、夕涼み、肝試し、線香花火、箱庭、盆踊り、七夕、天の川、流れ星……。
 いま、これらのうち、食べ物や野菜はいまでは多くのものが年中あるものの、都会で暮らしていて「ある」といえるものはほとんどといっていいほどない。習慣として残っているものも、なにか随分違う。
 季節とともに生きるのは、日本人の宿命であり、それをうまく生活に取り入れてきたのは日本人の知恵なのだ。それが時代の移り変わりとともに変化していくのはやむを得ないが、だんだんと滑稽なことも起こっている。
 たとえば「七夕」である。今年も7月7日には「七夕」だといって、商店街はセールをし飾り付けをするし、この頃では通行人に願い事の短冊を書かせるのが流行のようだ。保育園などでも七夕の歌を歌って行事をやったりする。それはまだいいとして、おかしいのはテレビやラジオでしゃべる連中である。七夕ネタでしゃべるのだが、必ず「残念ながら今日はお天気が悪くてお星さまは見えませんね」とか「一年に一度のランデブーなのにかわいそう…」「空を仰いでみても天の川はみえず残念です」などとのたまう。梅雨の真っただ中なのだから、当たり前なのだ。7月7日にはたとえ晴れていたとしても仰いでみても真上には天の川はないだろう。
 新暦と旧暦のことと、天体の運行の法則も知らないから、こんなヘンテコなことを臆面もなくいうのだろうが、こういうことが積み重なってだだんと日本人の季節感を狂わせ、かえって鈍感にさせていくことにならないのだろうか。ちょっと心配。
 新暦に切り替えたのはいいが、それと日本人の季節とともに生きる習慣の折り合いは、やはり充分についたとはいえないのだ。だからやっぱり七夕は、両方とも見たことはないが平塚よりも仙台のほうに軍配を上げる。
 大きな竹を切ってきて、近所の子供たちが集まってこよりを撚り色紙を短冊に切って飾り付けをし、夏の野菜や果物を供えて、夜空の真ん中に横たう天の川を見上げる。文字通り降るような星のなかから星座を探すのだが、北斗七星やはくちょう座はなんとかわかるとしても、どうみたって熊には見えないのに悩んだこともあった。こんな星空からあんな星座をつくりだした西洋人の頭は、いったいどうなっているのだろうと疑った。
 翌日は、この飾りの付いた竹をみんなで担いで、海に流しに行くのが習わしだったが、環境問題がうるさくなったし腐らない飾りもあったりするので、そんな習慣が残っているところももう少ないのだろう。
 そういえば、「○の風物詩」というのは、ほかの季節ではあまり聞かないような気がする。もしかして「夏」限定なのか。「春の風物詩」「秋の風物詩」「冬の風物詩」…、う〜ん「冬」くらいはちょっとだけありそうかな? 「春の風物詩」「秋の風物詩」「春の風物詩」「秋の風物詩」…。何度も繰り返して言っていると、今度はどれもなんとなくありそうな気がしてきた。b0095231_6534548.jpg
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