カテゴリ:ニュースから( 6 )

 稚内で母親がこどもに殺されたとか、岩手で母娘が殺されたとか、徳山の高専で女子学生が殺害されたとか、埼玉の市営プールで女の子が給水口に吸い込まれて死亡したとか、そんなニュースばかり連日連夜これでもかとばかりに流される。
 一時期は、その事件のやり切れなさよりも、その報道の過熱ぶりに胸が焼けていたのに、秋田の主婦?によるこどもの殺害事件や、平塚の母親による娘殺しで五人もの遺体が発見されたことなど、もう忘れてしまいかけている。
 福岡では酔っ払い市職員が橋の上から親子5人の車に追突して海に落とし、こども3人が死んだという。母親が何回潜ってこどもを助けようとしたとか、関係のない日本中の人までもが、事故の模様も逐一知っている。
 事件や事故は日替わりで起こるから、伝えるほうも毎日のネタには困らない。待っていればいくらでもネタのほうからやって来るから、それを次々に処理するだけで、お仕事になるのだろう。
 微に入り細に渡って報道されるそれを、驚いてポカーンと口を開けてみているわれわれは、そんなに「事件」や「事故」のことを知りたいのだろうか。
 確かに、気の毒な被害者には同情もするし、非運に見舞われたこどもたちに花を手向けて供養の一つもしたい、と思うのも自然な人情かもしれない。あるいは、そういうことをした犯人・容疑者を憎む気持ちまで、完全には否定しない。
 しかし、それでもなおかつ、われわれはほんとうにそんなにまでして「事件」や「事故」の一部始終を知りたいと願っているのだろうか。
 それを知らずしては、生きていけないのだろうか。
 一方には、もはや少々の事件や事故では驚かなくなってしまい、「またか」と思うだけで、そういうニュースにもだんだんと慣れっこになってしまって、ただ目や耳をふさぎたくなるという自分もいることに気がついて、それにも愕然とする。
 それよりも、事件や事故がなぜどのようにして起こったのか、その原因や背景や、責任の所在や今後への取り組みや対策や、そういうことのほうがニュースとしてははるかに意味があり重要なことだと思うが、そういうことにはスペースも時間も割かないのがマスコミなのである。
 おそらく、報道関係者に詰問すれば、「そういうことはみなさんがあまり興味がないので…」というに違いない。結局、こういうニュースを追っかけるほうもそれを見るほうも、「興味本位」に過ぎなくなってしまっている。
 それでは、もう一度問わねばならない。
 われわれは、そんなに「事件」や「事故」のことを知りたいと思っているのだろうか。
 あえて、語弊のある言い方をすれば、そんな他人のことよりも、自分や自分の身近な人のことで、もっと知りたいこと、知らなければならないことが、たくさんあるのではないか。
 知りたいこと、知らなければならないことは、他人の事件や事故のことではない。自分自身のこと、自分の両親のこと、自分のこどもたちのこと、自分の兄弟姉妹やその親や子のこと、そして自分の親の親や、親の親の親や、親の親の親の親のことや…。
 もちろん、それは事件や事故ではないから、それだけで日々忙しい報道関係者の手を患わせるようなことではないのである。新聞に載せるようなことではないし、テレビに出る必要などない。図書館に行って本を開けば、どこかに書いてある、といった事柄でもない。
 あくまでも、自分自身しか知らないことであったり、自分しか調べようのないことであり、自分しか書き記すことのできない事柄であろう。それは自分自身の個人の問題なのだ。
 そういったことを、知りたいと思わないのだろうか。それを残して後の世の誰かに伝えたいとは思わないのだろうか。
 でんでんむしは、それが知りたいと思う。それを後世の誰かに伝えたいと切に思う。
 それが、でんでんむしの『個人史』へのこだわりなのだが、そんなヘンなことを考えたりするのは、他人の事件のことを知りたいということよりも、不自然でおかしいことなのだろうか。
 最近の報道をみていると、だんだん自信がなくなってくる。b0095231_5572762.jpg
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 わが広島カープは、4位ながら借金8で折り返しのオールスター戦を迎えることになった。どうも、相変わらずここぞというところでずるずる負けてしまうので、5割も遠い。昨シーズンは、カープファンをやめたわけではなかったものの、シーズン当初から終始かなり球団と距離をおいた、冷めた目で遠目に眺めていて、ほとんど突き放したような気分でいたので、負けても「おお、また懲りずに負けとるのお」と、ほとんど気にならなかった。
 中心選手を次々と他球団に手放してしまい、餞別の追加大盤振る舞いなのか、それらにはからっきし意気地なくポカスカ打たれまくっている。寅縞球団に至っては、元カープが3番と4番を打っているのだが、いったいなんじゃあ、ありゃ。
 もともと、熱烈なファンという支持基盤をもっているのだ。もはや、「地方球団だから」とか「市民球団だから」とか「貧乏球団だから」とかを言い訳にするわけにはいかないのに、生え抜きで育てた実績のある選手ですら抱え切れない。それも、資金力のないせいばかりではないと思うのだが、多少は他球団よりも年俸が安いとしても、選手をこの球団に選手生命をかけていくんだ、という気持ちにさせられないようでは経営者としてダメなのだ。
 この状況は、大きな会社がバックについて宣伝のためであれなんであれビジネスの一翼として考え、多くの優秀なスタッフが仕切っている他球団と違って、個人商店の広島カープでは、もっぱらオーナーの問題なのだ。オーナーが変わらない限り劇的に変わることはあり得ない。先々代も先代もよかったんだけど、“売家と唐様で書く三代目”になってしまうのかねぇ。
 いろいろな意味で、中小企業の悲哀をそのまま抱え込んだような球団、それが広島カープなのだ。
 そんなカープを愛し続けて56年。距離を置くとはいいながら、やっぱり気になって、前のブログにはカープネタ野球ネタはなにを隠そうカープファンであるをはじめとして、いくつも書いているのだが、今年はさすがにオーナーもちょっとだけ動いた。初優勝をもたらしたルーツのひそみに倣ってか、ブラウン監督を持ってきて、コーチ陣もやっと一新した。
 昔一時期広島に在籍していた人だが、この監督がなかなかおもしろんだなあ。前のような「動かざること山の如し」「動くときは判で押したようなワンパターン」と違っている。選手の特性を見ているということもあるのだろうが、毎試合メンバーを変える。去年までたまに代打でしか使われなかった若い選手もどんどん出してくれる。選手とのコミュニケーションに心を砕いている様子も垣間見え、とても好感が持てる。
 まだまだ、ブラウン流の効果が完全にでて実績にあらわれるところまではいかないが、ちょっとはおもしろくしてくれそうな期待はできる。
 このシーズン前半戦では、これなんか笑えますね。
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 これを見ただけでも、ヨシとしますか。(7/14 横浜スタジアム 延長十回裏一死満塁)
 実はこれ、4月の中日戦でもやっているので、それを知らない関東の放送局の連中やベイファンらがいうように「前代未聞」ではないのだが、カープファンのでんでんむしも、実際にこの目で見たのは当然初めてである。
 こういう奇策も、前のときは捕手の後逸で、この日は投手のワイルドピッチで、結局どちらも功を奏したとはいえなかったのは残念だし、破れかぶれといえないこともないのだが、やっぱりこんなふうにひとがやらないことをやって、勝つ可能性を追求しようとするブラウンは好きだな。
 話は変わるが、ネットのニュースをみていると、くまえりがどうとか誰だかわからない芸能人の結婚離婚出産など、およそどうでもいいことあまり関心がないことまで知ってしまう、という傾向がある。そんな最近のネットニュースをみていて、ふと思った。野球が好き、野球ファンというのにもいろいろあるのだ、そんなごく当たり前のことにも、今更のように気がつく。
 ちょっとオーバーにいえば、カープに入れ込めば入れ込むほど、自分だけのチーム、自分の球団、自分が監督という根拠のない思い入れにひたってしまうことさえあるのだが、それぞれいろんな人がいろんな思いで野球に魅かれているのは、考えてみればこれはおもしろい現象ではある。
 神宮球場の三塁側内野席で、いつもすぐ前の席に取り巻きを連れて陣取っているのを見かけていたタレントがなにやらして、それが所属する元コメディアンのクラブチームが解散するとかしないとかで、大騒ぎになっている。このチームの名前が?な名前だなと思っていたら、これも有名な元コピーライターがつけたのだという。
 ほらね。こんなドーデモいいことまで“情報”として伝えられてしまうのよね。
 広島市民球場で相手チームの投手交代のときに流す音楽がよくないというので、ファンの間で物議を醸していたが、甲子園の「蛍の光」に「元広島」の江夏豊さんがクレームを付けて一部縮小されることになった、という。“アウトコール”もそうなのだが、だいたいにおいてビニール傘とかタオルとかを別にすれば、プロ野球の応援スタイルでは、そもそも昔から広島カープのファンの応援から始まった、というものが多いのだ。
 かと思うと、広島出身のお笑いタレントのアンガールズが、4ch恒例のバカ番組で走るというニュースでは、二人がちゃんとホームのカープユニを着ている写真が出ている。
 おお、オヌシできるな! それでこそ、由緒正しい広島人というものだ。4chといえば、今や落ち目とはいえ全国に根が浅いけど幅広い人気を誇る某球団の牙城ではないか。こういうことも、少し前まではなかったことだろう。
 八重山商工、がんばれよ! なんであんたが八重山…? 野球が好きになるのも、チームのファンになるのに理由はいらないのだろうが、最南端の高校だし横を通ったことあるし孫がいる島だし…。
 ついでにと、ついダラダラ書いていたら、オチが見えなくなってしまった。
 要は、やっぱりみんな野球が好き、ということかぁ。b0095231_6525545.jpg
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 昨日シンドラーのホームページへのアクセスが混み合って、すんなり見えなかったけれど、社長のメッセージは、何があっても絶対に「自分が悪かった」とはいわない、外人の論理を垣間見たようで、興味深かった。それでも、さすがに説明会もボイコットするような姿勢は、この日本では通用しないと思い直したのか、夜のテレビニュースでは担当者がビルの前に立って冥福を祈るとかいっていた。相変わらず、非を認めない、説明しない、という姿勢は変えていないのだが…。
 なんでもかんでもすぐに「ごめんなさい」といってしまうわれわれ日本人は、お人よしなんだと思う反面、しかしそれもわれわれが先祖から受け継いできた美徳のひとつとして、捨てたりしてしまってはいかんなとも思う。
 シンドラーエレベータのあるところは、東京都江東区越中島1…なんとでんでんむしの散歩道ですよ。昨日のニュース画面のビルには見覚えがなかったのだが、今度探しに行ってこよう。やじ馬。
 結局、書きたかったことは「シンドラーのリフト」という語呂合わせ・駄洒落だけだったりして…。

 (こんなん、どうしようかなーと、まだ模索中です。「個人史」に特化するんだけど、どうしてもそれだけではおもしろくない、書き切れないこともある。かといって、前のようなのと同じではなくしたい…。いろいろ思いあぐねていますので、これからしばらくは、まだカテゴリの構成見直しなど迷い中です。)b0095231_8414378.jpg
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 でました。ネットの著作権問題にふれたばかりのところへタイミングよく教材が出てきたものだが、こんな程度のことはそこいらじゅうにあるのだろう。
 自民党の杉村太蔵衆議院議員が、自らのブログで盗用疑惑があるとネタにされているが、マスコミが騒ぐところはいつもポイントがズレていく。削除したかどうかや、新婚の奥さんを連れて大阪まで謝りに行くか行かないかが問題なのではない。
 ここで、少しブログを書く人の身になって、こういう場合どう書くかを考えてみよう。
 ほんとうの事情がわからないし、そのブログを読んだこともないので、まず素朴に考えて疑問に思うのは、ⓐ自分の結婚式の前日になんでわざわざこんなネタを書くという心理はなにか、ⓑ自分の体験がウソ偽りでないとして、それを書くのにわざわざ同じような体験が書かれた本をもってこないといけないのか、ⓒ自分が実際に体験したしたことだとしたら、なぜ他人の本を参考にして、そっくりに書かなければならないのか、そのへんがどうにもわからない。
 あるいは、本人とは別の影武者かなにかがいて、ブログを書くのはそいつの担当だったとしたら、そういうことになる可能性がないともいえないのだが、まさかそんなことまではすまい。
 誰もが常に自分に素直に、あるがままにあり、自然に振る舞うのがいちばん楽なはずである。ところが、誰でもどうしても自分を飾ろうとする。だから、こういうことも起きるのだろう。
 とくに、書くという行為には、どこか“よそゆきのよそおい”が、多かれ少なかれ、必ずまとわりつくものである。自分をよく見せよう、うまく書こう、褒めてもらおう、といったことが、ある程度その行為の根底にある。それは、誰も否定できまい。問題は、その程度と方法なのだ。そして、書くということからは、別の人格が誕生することもあり得る。
 ブログに書くということは、不特定多数の誰かに読まれることを意識せずには書けない。そこに、書けないこと、書くわけにはいかないことを横によけて、これなら書いてもいいだろう、この程度なら書いてもかまわないだろう、といった選択をしているだろう。
 もちろん、書き方表現についても、それなりに考えているはずで、そのさいのポイントのひとつは公の場であることをわきまえたマナーからはずれないようにしようという配慮であり、ひとつはできるだけうまく書こうとする努力であろう。
 宙に消えてゆく言葉と違って、後に残る文章には、どうしてもそういった構えた姿勢が伴う。それが、ごく自然にできることが望ましいのだし、自然にできる範囲で充分なので、それでやっているうちは何の問題も起こらないのだ。
 うまく書きたいからといって、他人の本をみて書くことはないだろう。人の書いたものでもえらく気に入ったものがあれば、それをお手本にして、自分もあんなふうに書いてみたいと思うことはあるかもしれないが、それはあくまでもヒントにしたり参考にしたりという範疇に留めておかなければならない。
 どうしても、元暴走族の塾講師の本を引き合いに出したいのなら、「引用」として一部だけを引きながら、自分の土俵にもってくるという手も許されている。
 あるいはまた、○○の本にこんなことが書いてあったとネタ本をちゃんとばらしたうえで、『実は自分にもこの○○さんとまったく同じような体験があったので、これを読んだときには驚いてしまった。その舞台が、志賀高原か大雪山かの違いだけなのだ。』というように展開していけばよいのであって、こんなふうに自然に運んでいけばなにも問題になることも困ることはないんですよ、タイゾークン。
 けれども、人の本を引用したり、拝借したりするのには、それなりの必然性が求められる。どうしても、そこでそれが出てくることがごく自然であり、読む人がそれによっていっそう理解や感動が深まり、自分の言いたいことをうまく伝える助けになる、と判断される場合に限られるだろう。
 この場合は、全部を読んだわけではないが、どうもその必然性は乏しい。つまり、そもそも他人の体験記などを探してもってくる必要などが、な〜んにもどこにもないではないか。この程度のことを、わざわざ参考にする必要もない
 なぜなら、自分の体験そのものがいちばん尊い。それくらいの自負はもたなければならない。ものを書くうえでは、それもまた重要なのだ。
 自分に自殺未遂の体験があるならば(そんなことをブログで公開しようという意図もよくわからないが)、その体験に忠実に、なぜ、何故に自分はそれを書きたいかがわかるように書くべきだろう。
 自分が体験したことなら、自分の言葉で、きちんと表現できるはずであり、その程度ができなくてはブログなど書くわけにもいかない。
 テレビの言うことだからあてにはならないが、タイゾークンのも「人気ブログ」なのだそうだ。その定義もよくわからないが、多くの人が見に行っているということなのだろう。「ブログの女王」もいたりするかと思えば、人気ランキングに登録して、アクセス数が気になったりする人も多いらしい。
 そういうのも、ブログの一面なのではあろう。だが、それだけがブログではないような気がする。さしずめ「不人気ブログランキング」では上位に位置する当『重箱ブログ』なども、もっぱら人様に読んでもらうよりも自分のために書いているようなものだから、それでもいっこうに差し支えがない。
 だから、飾る心ともまったく無縁でいられる。そんなブログのあり方やよさも、もっと理解され、広まってもよいと思う。
 かつて、普段着ならぬ「ふだん記」を提唱し、運動を進めた人もあった。“おとなの綴り方教室”である。これも文を綴る楽しさを、文筆家や学者やインテリのものだけにせずに、一般に広めようというものだった。それに通じる、ブログの使い道もあるだろう。
 でんでんむしの意見では、極論すれば「文章の書き方」などは、十人いれば十通りの見方や書き方があっていいのだ。「下手に上手に書こうとする」から、他人の文章をマネしたりすることになるが、そもそもそんなことを思う必要がない。
 自分の心のおもむくまま、あるがままに書き留めてみよう。誰がどう思おうが…そんなこたぁかまやしない。b0095231_1637828.jpg
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 文化庁をあてにしていても、ここ当分は期待できそうもない。古墳の壁画にカビをはやかし傷つけたミスを塗り固めるのに大忙しらしいし、学者出身の長官には心は研究対象であって、行政に活かすものではないのか、関心の外であるようだ。
 もっとも、こういう組織の長が、ひとつのことに妙に関心を持ち、個人的な思い入れが強すぎると、周囲の状況を考えずにギクシャクの種を撒くことになる。あの小泉=郵政もそうだし、公取委=再販制度も何代か前の委員長がおかしいと言い始めて、以来再販を目の敵にして潰そうとしてきたのもそうではないかと、でんでんむし得意の勘ぐりでは思っている。
 たとえば、どろぼうに自分の大事な物を盗まれた、という場合はすぐわかるし、警察に届け出て騒ぎになる。それでも、犯人がつかまって盗まれた物が戻ってきてよかった、というケースはほとんどない。犯人に損害賠償請求をして、被害を取り戻したという話も、まず聞いたことがない。これだけ、法律がたくさんあり、警察や裁判所など悪を摘発し裁く組織があっても、われわれの市民生活が安全でないのは、毎日のニュースを見ればよくわかる。
 人間の悪心は、どうしようもないもので、凶悪犯罪に至らないまでも一見善良そうな個人個人が抱えている小さな悪心が、順法精神をはじけさせ、いつか世の中を崩壊させるほどのパワーをもっているような気がする。
 話がそれ始めたが、盗まれたとしても、本人が被害にあったことに気がつかなければ、あるいはそれが騒ぎにならなければ、その犯罪は犯罪でなくなる。そして、その犯罪はたいした悪意もなく、ほんのちょっとしたできごころで、あるいは「まったく無知」という強力なバリアーによって堂々と行なわれる。
 このまま放っておけば、その犯罪は天下に蔓延し、いつか世の中の秩序をも打ち壊してしまうのではないか。天が落ちてくると案じた、古の杞の人にも似た心境になる。
 何を大げさな、といわれるだろうが、実は大真面目なのだ。
 著作権は、無体財産権のひとつである。従来は、この権利は一部のごく限られた人にしか関係がなかった。ところが、今では状況は様変わりになっていて、どこを向いても“著作権者”だらけである。本人がそれと意識していなくても、こうしたブログに書いている人はすべてそうであり、ネットに載った物もそれ以外に書いた物も含めてすべて著作物なのだ。
 こうした事態に、今の法律は的確に機能していくことができるのだろうか。あるいはまた、そこに参加する人すべてに、必要十分な知識やその普及がはかられているのだろうか。
 デジタルの便利さは、いとも簡単に他人の著作権を侵害できる。コピペでOK、人の物を盗むのもワケはない。他人のブログを検索してみて、使えそうなところをコピーして自分のブログにペーストして、ちょこちょこっと変えれば、誰でも簡単にできてしまう…。
 “そんなヤツはおらんじゃろー”(こだま&ひびき風に)
 ほんとにおらんじゃろーか。盗まれていてもわからないだけ、気がつかないだけなのではないのか…。いやいや、そんな“人を見たら泥棒と思え”という疑心暗鬼になれというのではない。ただ、そういう可能性を考慮したPRが必要なのに、誰もどこも何もしようとしない、といっているのだ。
 もう10年も前のことだったか、インターネットがやっと一般的になり始めた頃、わたしの手がけた一冊の本が、同じタイトルで同じ内容でそっくりかなりの量、とあるホームページに使われていた。著作者とも出版社ともまったく無関係の一個人のページで、たまたま著者が自著タイトルで検索していて見つけた。メールアドレスが表示してあったので、さっそくメールで抗議したが何の返事もなく、しばらくして見たら削除されていた。
 ネットの初期には、ホームページをやるにも何を入れていいか、個人ではコンテンツに困るということもあったかもしれない。だが、やっていることは悪質で、著者名も出版社名も隠したまま、どうみても“これは自分が書きました”というふりをしている。悪いこととは知らなかったというには、念が入りすぎていた。この場合、本と同じタイトルを使っていたから見つかったので、もしもっとうまく変えていれば、今でもバレずに通用していたのかもしれない。あるいは今も…。
 著作権侵害という罪は親告罪なので、被害者などが訴えない限り問題にならない。つまり、同じことをやっていても、見つかって文句を言われれば罪だが見つからなければそれが通ってしまう。ここにも、著作権をうやむやにしてぼかしてしまう、そしてわかりにくくしてしまう原因がある。また、逆に言うと、表現の微妙な言い回しなど、剽窃・盗作であるかないかは、“文句をつけたモン勝ち”というところも否定できない。
 おそらく、悪いこととは知らなかったとやっている人もいうのだろうが、映画の一場面や女優の写真などを自分のブログに貼付けたりしているのを、よく見かける。著作権者や本人の許諾を得ていない限り、こうした使用法は完全にアウトである。
 しかし、モーツアルト・イヤーの今年、自分も便乗してあの赤いジャケットを着て白いかつらのモーツアルトの肖像を使いたいと思って、どこからかコピーして持ってきたとして、それはセーフなのだろうか。
 著作権には、こうしたグレーゾーンも果てしなく広いのだが、それについての明解な説明は得られず、限りなく曖昧で模糊モコッとしている。ひとつには、著作権についての判例があまりにも少なすぎることがあげられるだろう。争いを好まないといえば聞こえはいいが、事なかれ主義でほとんどの著作権紛争は示談で終わってしまう。なので、そういう事例の争点は闇から闇に消え、法律の解釈が洗い磨かれていくうえで欠かせない判例の積み重ねが、この法律にはほとんどといっていいほどないのだ。
 でんでんむし個人的には、厳格すぎる取り締まりや行き過ぎた権利意識の肥大化は、逆に文化的な発展を阻害するものだと思っている。むしろ、たとえば誰もが自由に使える公共の財産としての「パブリック・コンテンツ・バンク」のようなものが、いまこれからますます必要になるのではないかと考える。
 それを文化庁が率先してやるべきなのに、古墳のミスで……あ、これもういい?、もういいですね。文化庁があてにならないのなら、業界団体でと思ったら、これがまた肝心なことをやらずに、よけいなことをしている。5/13のasahi.comが伝えるところによれば、日本書籍出版協会など4団体は、絵本の読み聞かせにも細かい注文をつけているのだという。それによると、たとえば『表紙をホームページにのせる場合も「確認が必要」とした。また、非営利の定義も、「読み聞かせをする人に報酬・謝金を支払うのは×」「観客に配るお菓子・ジュース代を徴収するのは○」など細かく示し』、こどもを絵本に親しませようという現場を萎縮させてしまうのではと危惧されているのだという。とくに「表紙をホームページに載せる場合も確認せよ」というのは、表現の自由に一歩踏み込んだ規制で、これが拡大解釈されると、かなり不自由なことになる。
 前にはこどもと本にも深い関心があったらしい文化庁長官は、これについてどういうのだろうか。
 公共の利益は、時として声高な権利者の前には常に無力で、あまり関心が払われることがない。一面では、音楽著作権協会のような相当に強引で強力な規制も、今のような時代になってみると、あれはあれで著作権の保護のためには有効だったという理解も改めてできるところもある。
 著作権の深い森で、でんでんむしのような小さな存在は、道に迷うばかりである。b0095231_928913.jpg
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 長い間、編集者という仕事を続けてきて、なにがイヤだといって、自分の手がけた本や雑誌などの作業が終わってからと、それが納品されてからしばらくの気分の悪さに勝るものはない。そう思う編集者は、でんでんむしだけかもしれない。仕事が自分の手を離れてほっとするとか、完成してうれしいとか思うんじゃないのかと、普通に外部からみてもそうだろうし、編集者自身多くがそう考えたとしてもなんら不思議ではない。ところが、個人的にはこの期間がイヤなのである。
 その理由は、“どこかに重大なミスがまだ残って潜んでいるのではないか”という不安が、どうしても払拭できない、これでバッチシだよなどと安心できるようなことはまったくないからだった。
 この業界では「校正恐るべし」という格言があったらしい。「らしい」というのは昔読んだ『編集入門』といった類いの本にそう書いてあったからであって、自分では直接聞いたこともないしそんなものは使ったこともない。「後生畏るべし」のもじりだというのだが、たいして秀逸なギャグとも思えないし、今風にいえば“そのまんまやんけ”というほどのものである。だが、校正の恐ろしさは、言われるとおりで身にしみていたのだ。
 おかげさまで、いろいろな失敗をたくさん経験してきた。正誤表なんぞはなんどもあったし、印刷所に出向いてセッセとシールを貼って修正したこともある。読者の目に触れない形では、キリサキといって、間違いのあるページだけを切り取って正しい印刷を糊付けして挟み込むという手法もある。もちろん、場合によっては丸々一からやり直し刷り直さなければならない場合さえあるのだ。
 そういう事態になったらまずいな困るなと、ビクビクしながら不安にさいなまれる、情けない小心な編集者だったのだ。
 雑誌の場合は、次の号で「お詫び訂正」をするという方法もあって、その次号が出るまでの間、布団かぶっていればいいといわれていたこともある。単行本の場合は、売れる本はすぐ増刷で修正する手もある。といっても、何か月何年待ってもあるかないかわからない増刷で直すというのは逃げ口上で、直さないのと同じことだ。コンピュータの場合新発売の最初に買うと、不具合が多いとよくいわれるが、どんな製品でも初期不良がある点では同じだ。
 今でも、買ってきた本を読んでいて反射的に赤ボールペンを手にとってしまうようなことがあったりする。そういうときは、「へっへっへえー、やっとるやっとる。これはありがちだよな」などと、密かに他人の小さな不幸を意地悪く喜んでいたりする。
 大手の出版社では、編集部と別に校閲部のような組織があるところもあるが、たいていは校正は編集者の重要な責任を負う仕事であり、ミスの原因・遠因も、分析していくとさまざまだ。
 原稿によっても、ミスの出方が違う。文学・学術などの世界では、基本的には「原稿通りにしておけばよい」というガイドラインがある。そうであれば、校正の方法もそれに適したやりかたがある。
 編集者も三分の一は執筆者というような仕事をしていると、校正ミスではなく「執筆ミス」まで起こる可能性があるので、幅広くこれをカバーしなければならない。わたしの場合はそうで、印刷所に出張校正に行って、なおかつ何十行も原稿を入れ替えというようなことも少なくなかった。これはまた、新たな単純ミスの元ともなる。
 時代とともに、校正ミスの発生原因やそれを生じる環境も変化してきた。新米の編集者など足元にもおよばない物知りの文選工が健在だった頃は、わずかに不明な箇所や活字のないところにゲタをはかせたりするくらいで、編集者の校正は印刷所の職人のミスをカバーするというのが主だったといってよい。
 ところが、電算写植時代になると、オペレーターといわれる人たちの専門性のポイントが置き換わってしまい、原稿が読めない字がわからない人までもが入力をするようになる。こうなると、最初からミスの宝庫で、まったく思いも寄らないようなミスが起こる。それが残らないように、校正でそれを宝探しのようにしてチェックしては直す、ということになる。
 さらに、DTPといわれるものが幅をきかせるようになり、一般にもコンピュータが表現の主要な道具となると、ワープロソフトやFEPの機能の限界と、それを使いこなすだけの知識も常識もない人の原稿がそのままスルーして、変なミスが横行するようになる。さすがに、印刷物では少なくなったが、テレビの字幕・テロップやフリップなどでは今でも毎日盛んにお目にかかる、同音異義語の選択間違いなどがそれである。
 執筆者・編集者も同時に文選工であるという今の状況では、校正ミスの責任を印刷所のせいにすることもできず、すべて編集者がしょいこまなければならなくなった。その重圧は、それを自覚するほどに重くのしかかってくる。
 校正ミスの不思議は、何度見たつもりでも必ずといっていいほど間違いは隠れていることであり、見るたびに少しずつしかそれが見えてこないことである。本ができあがって、ぺらぺらとめくっていると、間違いがすぐ目に飛び込んでくるのも不思議だ。校正であれほど見ていても、気がつかなかったのに…。
 今週のニュースでいちばんおもしろかったのは、中学校の教科書がミスだらけだったというヤツである。そのニュース記事によれば、「4月から中学校で使われている9教科134冊の教科書のうち、65冊に計208カ所の記述ミスなどがあった」という、あれだ。教科書にしてこのざまというのは意表を突かれた思いもあるが、そのミスのレベルがお粗末で、これはちょっとひどい。
 「遺志を継いだ」を「意思を継いだ」というのは、これが典型的変換時の候補選択ミスだが、おそらく意識としてその違いを分別しなければならないという「意思」がなかったのであろう。
 もとより他人のミスをあげつらうのは、天に唾するようなものであることも重々承知しているが、「ひらがな」を「ひらなが」と誤ったりする古典的な間違いとか、「立方体」が「立方休」になる間違いとか、「目の前」の「目」に「ま」とふりがな表記したというのは、教科書というようなケースでどういう作業と経緯でそうなったか不思議である。
 なにごとによらず、ミスというものは、起こるべくして起こっているのだ。それは、確かだ。たとえば、「立方休」というのは古い印刷物を原稿にしてOCR変換で読み切れず残ってしまったらしいと推測できる新タイプのミスである。「目の前」は、元は「目のあたり」だったのを変えたけれど、ふりがなを変えるのを忘れた、ということなのだろう。このようになんとなく、その状況や背景が想像つくような部分もあるが、後学のために詳しく聞いてみたい気がする。
 それにしても、「51社のうち、校正・校閲の専任担当者がいる社は4社」だそうで、近頃の教科書出版会社や編集者は、ずいぶんと気軽に大胆な仕事をしてるんだなあ、と臆病で小心者のでんでんむしは感心してしまうことしきりであった。b0095231_9215634.jpg
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